佐藤二葉『アンナ・コムネナ』3(星海社、2023年)

 
 
 『アンナ・コムネナ』3巻を読んだ。皇子ヨハネスの初陣にあたって、彼の従兄弟たちも出陣することになる。その中にアレクシオス一世の弟ニケフォロスの息子アレクシオスがいた。彼をVarzosのコムネノス家のプロソポグラフィーで調べてみた*1。情報は少なく、父の名とパンセバストス・セバストスの爵位を授かったことくらいで、生年は推測、没年や母の名は不明である(父のニケフォロス自体が目立った活動をしていない)。そして最後の一行はこうである。

Τίποτε ἄλλο δὲ γνωρίζομε γι'αὐτόν.

(我々は他には何も彼について知らない。)

 作中のアレクシオスは絵が得意なのだが、それを父親から「男らしく」ない、軍人にふさわしくないと言われている。だが、アンナは神から与えられた能力は活かすべきだという。一方皇子ヨハネスはこの「男らしさ」を追求するし、それに向いていると思っている。

 史実のアレクシオスは多分父親があまり活躍しなかったせいで自らも出世せず、歴史の表舞台からフェードアウトしてしまったのだと思うが、ひょっとしたら、コムネノス朝期の皇族・貴族にあった武人的エートスに合致しなかったため、史書に記述されなかった可能性があったのかもしれないと少し思った。

 

ヴェネツィア共和国のドージェについて

 前々から気になっていたビザンツ研究者渡辺金一氏の『海の都の物語』についての書評を読んだ*1。そこにこう書かれていた。

塩野さんが元首という訳語をあてているドージェとは、語源的にみれば、ラテン語のドゥクスのイタリア語化した言葉、つまり、本来は、さきにみたように、コンスタンティノープルローマ帝国のイタリア統治の軍事・行政地区の、その長官を意味する言葉なのである。いずれにせよ、さいしょから元首制というものがあったわけではない。さらにはまた、元首は世襲制でこそなかったものの、いったん選ばれれば終身制であった。そして、また、最初の頃は、市民大集会で選出されたとすれば、それを選挙王制と区別する標識は、いったい何処にあるのだろうか。いや、それよりも、市民大集会とはいったい何であり、また、市民大集会の選挙が、元首をきめる、いってみれば合憲的な手続きだとするコンセンサスは、どうして生まれてきたのだろうか。疑問は次から次へと湧いてくる*2

 それで、『海の都の物語』を読み直したら、次のように書かれていた。

六九七年、ヴェネツィア人は、はじめて、住民投票によって、元首(ドージェ)を選出する。これは、一七九七年にヴェネツィア共和国が崩壊するまで絶えることなく続いた、選挙による選出と、終身の役職であるこの制度の最初であった*3

 最初のドージェ選出について、中平希『ヴェネツィアの歴史 海と陸との共和国』で確認した。

 ドゥクスヴェネツィアの言葉で「ドージェ(Doge)」と呼ばれた。ヴェネツィア共和国の正史によると、ヴェネツィア人がビザンツ帝国から離れてはじめて独自に選出した初代ドージェは、六九七年に選出されたパオロ・ルチオ・アナフェスト(パウリキウス)である。しかしこの人物は、研究者ロベルト・チェッシによるとラヴェンナ総督パオロと同一人物であった。ヴェネツィア人の代表として確証があるのは、七二六年選出のオルソである。ビザンツ皇帝が同年に偶像崇拝禁止を徹底するために聖画像破壊令イコノクラスムを出したことに反発した選出といわれるが、この代表者はやがてビザンツ皇帝によって執政官イパートとして承認された。ビザンツ皇帝の承認を重要視した証拠として、オルソとその次の元首ディオダート・オルソが、本人の名前とともにイパートを名乗っている。

 ヴェネツィアのドージェは、九世紀以降、ビザンツ帝国と密接な関係を保ちつつも次第にビザンツ帝国から自立し、ヴェネツィア人自らの政治的指導者となった*4

 「イパート」はビザンツの名誉称号・爵位の「ヒュパトス(ὕπατος)」であろう。ラテン語の「コンスル(consul)」にあたる*5

*1:塩野七生『海の都の物語』 地中海世界へ無限の興味をそそる」(思想と潮流)『朝日ジャーナル』24巻15号、1982年、65-67頁。

*2:同上、66頁。

*3:塩野七生『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』上巻、中公文庫、1989年、18頁。

*4:中平希『ヴェネツィアの歴史 海と陸との共和国』創元社、2018年、39-40頁。

*5:井上浩一『ビザンツ帝国岩波書店、1982年、125-126頁。

『喜嶋先生の静かな世界』と「キシマ先生の静かな生活」のあいだ

 森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』が刊行されたの知った時、似たようなタイトルの短編を読んだことがあったので、『僕は秋子に借りがある』のように再編された短編集の表題作だと思っていた。それは短編集『まどろみ消去』に所収されている「キシマ先生の静かな生活」であった(英文タイトルは同じThe Silent World of Dr. Kishima)。

 『喜嶋先生の静かな世界』と「キシマ先生の静かな生活」長編化に伴いかなりエピソードが追加されている(以下、短編は「キシマ先生」、長編は『喜嶋先生』と略し、それぞれの登場人物のほうは、キシマ先生、喜嶋先生と表現する)。主な違いは『喜嶋先生』の登場人物の多さである。「キシマ先生」では主な登場人物は、主人公の「ぼく」、キシマ先生、そして計算機センタの職員の沢村さんだけであった。『喜嶋先生』は、喜嶋先生、主人公の「ぼく」(橋場という苗字がある)、同級生の清水スピカ(「キシマ先生」では主人公は助手になってから出会っ多女性と結婚しているが、学部卒業後彼女と交際して助手になった後結婚している)、所属講座の教授森本先生、主人公の卒論の実質的な指導をしたD3の中村さん(当初、彼が「キシマ先生」の主人公「ぼく」である叙述トリックの可能性を疑っていた)、学部の学年は一つ上だったが、卒業後一年遅れて別の専攻から主人公と一緒に修士課程前期に進学した女性櫻居さんである。

 「キシマ先生」はメルヒェンのような感じなので気にならなかったが、『喜嶋先生』では喜嶋先生がなぜ助教授になったか、結婚後どういう生活を送るつもりだったのか、考えていたのかということがどうしても気になってしまう。喜嶋先生は決して世間知らずではない。
 喜嶋先生が中村さんや主人公に推薦した助手のポストは本来先生自身に向けられていたポストではないかということだが、沢村さんからの計算機センタの相談員就任の依頼も主人公に振っている。これは、沢村さんの依頼であろうと生活が乱されることは拒否する喜嶋先生の性格を表していて、これが最後の沢村さんの悲劇につながるのではないか。

 あと、主人公を二度「羨ましい」と言う櫻居さんの存在が、主人公と喜嶋先生、主人公とスピカとの関係についての一つの参照軸となっていると思う(櫻居さんと連絡が取れなくなっても簡単に諦める主人公が連絡が取れなくなった喜嶋先生にはどうにかして取ろうと努力する、櫻居さんにはどうも話を聞きたがってもらいたがっているようだと感じるだけだが、大学院に進学して一カ月ほどしてから不意に主人公のもとを訪れたスピカとは当の櫻居さんの話題することになるなど)。

A・P・カジュダンのビザンツ観

 この機会に、連続ツイートしたものを編集してブログに挙げてみようと思う*1


 以前ビザンツにおける科学について調べるとき、C. Mango, “Byzantium’s Role in World History” in The Oxford Handbook of Byzantine Studies (Oxford, 2008)を読んだ。そこにソ連出身で、後に米国に移住したビザンツ学者A・P・カジュダン(1922年9月3日-1997年5月29日)の文章が引用されていた。それは彼の生誕80周年記念論文集*2に所収されていた"Трудный путь в Византию" (「ビザンツへの困難な道」)という文章からのものでマンゴーが引用にあたって英訳したのだろう。なかなか興味深いものなので日本語に重訳して紹介する。

私がビザンツの歴史とその20世紀への重要性について考える時、いつも、ビザンツは我々にヨーロッパの全体主義のユニークな経験を残したのだという同じ考えに立ち返る。私にとって、ビザンツは正教信仰の揺籃や古代ギリシアの宝物の保管庫というよりも、全体主義の実践の1000年にも渡る経験であり、その理解なくしては、我々〔すなわちロシア人〕が歴史的経緯における我々自身の位置を理解することは不可能であるように思われる*3


 この暗いビザンツ観は彼の別の著作の序論でも述べられている。

 社会的関係の欠如あるいは緩さ―換言すれば個人主義―は、社会におけるビザンツ人の態度を定義する最も重要な特徴である。しかし個人主義という用語は、ビザンツ個人主義ルネサンスや近代的タイプの個人主義的行動とは根本的に異なるので、それとそのより新しい類似を区別するために自由なき個人主義と定義される必要があり、ここでそう呼ばれるだろう。平均的なビザンツ人は、あらゆる強固な形態の社会的関係を奪われているので意識的に核家族の狭いサークル内にとどまり、集団的防衛や援助の手段を欠いているので危険な世界において孤独と孤立を感じていて、不可解で抽象的な権威の前に無防備である*4

 

 

*1: https://twitter.com/Basilio_II/status/528822246207275009?s=20&t=dVT4JzgtF1mFU8gYu5dAHA 以下のツリーと https://twitter.com/Basilio_II/status/722762785713565697?s=20&t=rZrvepWBi918eQ1cmnwNtw 以下のツリー。

*2:Мир Александра Каждана : к 80-летию со дня рождения (『アレクサンドル・カジュダンの世界 : 生誕80周年に寄せて』), Санкт-Петербург, 2003. 筆者未見。

*3:Mango, ibid., p. 958. 亀甲括弧内はマンゴー。

*4:A. P. Kazhdan & G. Constable, People and power in Byzantium : an introduction to modern Byzantine studies, Washington, D. C., 1982, p. 34. 拙訳。

『アレクシアス』中の皇帝の名に因んだ金貨名称について

 アンナ・コムニニの『アレクシアス』の中に引用されている二つの外交文書において、2回皇帝の名に因んだ金貨名称が登場する。

 一つ目はアレクシオス1世の西の皇帝ハインリヒ4世宛書簡で、ハインリッヒに贈られた貨幣の金額は「細工された銀イルガズメノス アルギロス、古い時期の純分の、ロマノス帝の像の刻まれた貨幣ロマナトンで支払われた」(『アレクシアス』第III巻10章4節)*1と書かれている。

 二つ目はボエモンとのディアボリス条約の中で、年金を「ミハイル帝の肖像貨幣ミハイラトゥハライ 」(同書、第XIII巻12章25節)*2で支払うことになっている。

 この前者がロマノス3世アルギュロスであるが*3、後者の「ミハイル(ミカエル)帝」について、日本語訳の註は以下のようになっている。

ミハイル帝の肖像貨幣はAlexias, Pars Alteraによれば、aurum effigie Michaelis Paphlagonis ornatum (ミハイル=パフラゴニオス帝の肖像の刻まれた金貨)。このミハイル4世(在位1034~41年)の金貨純度を保持していたが、コンスタンディノス9世モノマホス(在位1042~55年)の治世には金貨ノミスマの純度は18カラット(本来のノミスマは23ないし24カラットに下落した*4

この翻訳の底本Annae Comnenae Alexiasおよび校訂者の一人Dieter R. Reinschによるドイツ語訳の註はそのような解釈になっている*5。しかし、英語訳やフランス語訳の註ではミカエル7世としている*6

 デュ・カンジュによるこの語の注釈では、ミカエル7世の金貨を指している*7。それ以降通常はそのように解釈されてきたが、フィリップ・グリアソンは金貨の貶質の研究の元に、ミカエル7世の金貨は貶質しているので、「ミハイラトン」という言葉はそれ以前のミカエル4世の金貨を指すとした*8

 「ミハイラトン」という金貨名称については、セシル・モリソンの研究があり、『アレクシアス』のこの記述にも言及している*9。「ミハイラトン」という金貨名称がミカエル7世の肖像の金貨であることは認めていいだろう*10。グリアソンも後に、この見解を受け入れている*11。ただ"solidus michalati"の語が1038か1039年に表れている文書があり、これはミカエル4世のものだと思われる*12

 なぜボエモンへの年金支払いがミカエル7世の金貨で勘定されているかということについて、Sewter-Frankopan, Leibともに、アレクシオス1世初期の金貨よりもミカエル7世のそれの方が質が良かったからだとしている*13 。彼らも価値が高い金貨だから用いられたとする点では、初期のグリアソンと変わりはない。しかし、1092年以降、新金貨ヒュペルピュロンをはじめとした幣制改革が行われ、金貨の純度は向上していた。

 これに対しモリソンは、特に北シリアと南イタリアでミカエル7世位の一連の外交的・軍事的の結果として考えれば、「ミハイラトン」の大量の流通を大げさに考えることはないとしている*14異なった純度の貨幣間の交換比率がしっかりと定まっていれば、貨幣自体の純度はさほど問題にならなかったのかもしれない。

*1:アンナ・コムニニ著、相野洋三訳『アレクシアス』悠書館、2019年、118頁。

*2:前掲書、467頁。

*3:ただし、Sewter-Frankopanの註ではロマノス4世ディオゲネスとしている。Anna Komnene, tran. by E. R. A. Sewtor, rev. with introd. and notes by P. Frankopan, The Alexiad, London, 2009, p. 494, n. 39.

*4:前掲書、逆ノンブル251頁。

*5:Diether R. Reinsch & Athanasios Kambylis, eds., Annae Comnenae Alexias, Berlin, 2001, 2 vols., v. 2, p. 53; Anna Komnene, übersetzt von D. R. Reinsch, Alexias, 2. Aufl., Berlin, 2001, S. 471.

*6:Anna Komnene, translated by E.R.A. Sewter, revised by Peter Frankopan, The Alexiad, London, 2009, p. 525; Anne Comnèn, texte tradui et annoté par Bernard Leib, introduction par Peter Frankopan, Alexiade: règne de l'empereur Alexis Ier Comnène (1081-1118), Paris, 2019, p. 581.

*7:“Carlori du Fresne Ambiani, dom du Cange, Quæestris Franciæ, In Annæ Comnenæ Caesarissæ Alexiadem notae historicæ et philologicæ", in Ιωάννη Κιννάμου βασιλικού γραμματικού Ἱστοριῶν λόγοι ἕξ = Joannis Cinnami imperatorii grammatici Historiarum libri sex, seu de rebus gestis a Joanne et Manuele Comnenis Impp. CP., Parisiis, 1670, pp. 221-425, inter alia p. 401, later published as "Caroli Ducangii In Annae Comnenae Alexiadem: Notae historicae et philologicae", in Ludovicus Schopenus ed., Annnae Comnenae Alexiadis libri XV, v. 2, Bonn, 1878, pp. 415-703, inter alia p. 668.

*8:Ph. Grierson, "The Debasement of the Bezant in the Eleventh Century", Byzantinische Zeitschrift 47, 1954, pp. 379-394, esp. p. 391, n. 5.

*9:Cecile Morrisson, "Le michaèlaton et les noms de monnaies à la fin du XIe siècle", Travaux et mémoires (Centre de recherche d'histoire et civilisation Byzantines), 3, 1968, pp. 369-374, surtout p. 373.

*10:この結論どおりにミカエル7世の金貨を指すことでおおむねいいと思うのだが、細かいところで訂正が必要な点がある。ディアボリス条約では前掲の次の節に「今後先の皇帝プロヴェバシレフスであり主人キルたるミハイルの肖像を刻んだ二〇〇タランダを年金授与として帝国金庫から受け取ることになる」(『アレクシアス』、467頁)と言い直している。モリソンはこの"προβεβασιλευκότος < προβασιλεύω"という語が、直前の皇帝であることを意味すると解釈しているが (Morrisson, op. cit.)、『アレクシアス』の中でも、コンスタンティノス10世ドゥーカス、イサキオス1世コムネノス、ニケフォロス3世ボタネイアテス、ロマノス4世ディオゲネスの皇帝たちがこの語で形容されている (Reinsch & Kambylis, eds., v. 2, p.192. こちらでは第XIII巻12章26節の皇帝をミカエル4世ではなく、同7世としている)。そもそもアレクシオス1世の直前の皇帝はミカエル7世ではなくニケフォロス3世である。

*11:Philip Grierson, Catalogue of the Byzantine Coins in the Dumbarton Oaks Collection and in the Whittemore Collection, Volume 3. Leo III to Nicephorus III, 717–1081, Washington, D.C., 1973, pp. 60f.

*12:Codex diplomaticus cavensis, t. 6, Milano, p. 117; cf. Philip Grierson, Catalogue of the Byzantine Coins in the Dumbarton Oaks Collection and in the Whittemore Collection, Volume 3. Leo III to Nicephorus III, 717–1081, Washington, D.C., 1973, pp. 51 & 60.

*13:Anna Komnene, tran. by E. R. A. Sewter, rev. with introd. and notes by P. Frankopan, The Alexiad, London, 2009, p. 525, n. 31; Anne Comnène, texte etbli & trad. par B. Leib, Alexiade: règne de l'empereur Alexis I Comnène, 1081-1118, tom. 3, Paris, 1945, pp. 136f., n. 3.

*14:Cecile Morrisson, "Le michaèlaton et les noms de monnaies à la fin du XIe siècle", Travaux et mémoires (Centre de recherche d'histoire et civilisation Byzantines), 3, 1968, pp. 369-374, surtout p. 374.

シャーロック・ホームズ譚「三人の学生」と19世紀末英国の古典ギリシア語学習環境

 このツイートを読んで、シャーロック・ホームズ譚の一つ「三人の学生」"The Adventure of the Three Student"を思い出した。この話はある大学での奨学生試験のカンニング事件を扱ったものだが、そのギリシア語長文の翻訳問題が"half a chapter of Thucydides"であった*1岩波少年文庫『シャーロック・ホウムズ帰る』の「訳者あとがき」で、ホームズ譚には「ところどころつじつまの合わぬ点がでてきて、それについての議論がわくなど、微笑ましい話も数多くある」とし、この「三人の学生」を例に、長沼弘毅著『シャーロック・ホームズの大学』(実業之日本社、1976年)からの指摘を5点あげていて、その5番目が以下のものである。

 奨学金しょうがくきん試験しけんを受けるほどの学生が、「いままでいちども有名なツキジデスの文章を読んだことがない」といのもおかしい。その出典しゅってんがわかれば、危険きけんをおかしてうつしたりしなくとも、あとでゆっくり、自分の部屋へやなり図書館なりで原文をたしかめ、辞書片手じしょかたてに勉強できたはずである*2

 これを読んで、当時の英国の大学の古典ギリシア語学習環境はどんなものだったかということについて考えてみた。

 事件が起きたのは1895年である。辞書はLiddell & Scottの第7版(1883)が使える。また1889年にはAn intermediate Greek-English lexiconが出版されている*3。Intermediateぐらいは学生が個人的に所蔵しているものなのだろうか。

 トゥキュディデスの校訂版は、Scriptorum classicorum bibliotheca Oxoniensisの初版は1898年に刊行が始まるのでまだ利用できない*4。Teubnerを用いたのだろうか。

 問題は出典がどこかすぐに見極められるかどうかである。おそらく出典は問題用紙に明記されていなかっただろう。そして西洋古典学を専門にしていなければ、トゥキュディデスを原文で読むのもせいぜい有名な箇所ぐらいだろうからそれ以外の所が出題されたとしたら、ざっと読んだだけではトゥキュディデスであることもすぐにはわからないだろう。とりあえず書き写すというのも理解できるのではないか。

そこには、だれの肖像と銘があるか:11世紀ビザンツの金貨の品位低下と皇帝肖像に因む金貨名称

「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
(ルカによる福音書(新共同訳)/ 20章 24-25節)*1

 比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史 権力と図像の千年』(中公新書、2018年9月)の「はじめに」に以下のような文章がある。

 現在の日本のお金にも、紙幣には著名人の肖像が描かれている。たとえば福沢諭吉が描かれている現在の一万円札は、しばしば「諭吉さん」などと比喩的に呼ばれる。これに対してローマの貨幣が「アウグストゥスさん」と呼ばれたという記録は、残念ながら残っていない。もしそのように呼ばれていたとするならば、第二代皇帝が新たに即位したときには、その名前から「ティベリウスさん」とでも呼ばれ方が変わったのかもしれない。*2

  しかし、11世紀ビザンツの金貨には描かれている肖像によって独自の名前で呼ばれていて、それには重要な意味があった。

 11世紀中ビザンツ金貨(ノミスマ・ヒスタメノン)の金の含有量はミカエル4世(在位1034-1041)の治世まで90%であったが、その後加速的に純度が下がっていく。コンスタンティノス9世モノマコス(在位1041-1055)からロマノス4世デイオゲネス(在位1068-1071)の治世間に87%から70%、ミカエル7世ドゥカス(在位1071‐1078)からアレクシオス1世コムネノス(在位1081-1118)による幣制改革以前の1092年までの間に35.8%から10.6%まで下落した*3。そのため取引上、どの皇帝の肖像が入った金貨であるか区別する必要があった。11世紀の地方貴族ケカウメノスの以下の文章はそのことを物語る。

「私はこれこれの金を商売のために用意していました。けれどもこの極印の貨幣ではなく、これこれの(汝がそれをもっていることをこの男は知っているのだ)極印の貨幣が欲しいと相手はいっています。あなたがをそれをお持ちなのを―と彼は続ける―聞きました。私にご好意をお持ちなら、私がこの取引をしそこなうことがないよう、お貸し下さい。私は大いに儲けるつもりです。明日あるいは一週間のうちに、あなたはご自分のお金をたくさんの贈物がついて取り戻すでしょう。」
(ケカウメノス『ストラテギコン』(井上浩一訳) 、第43章*4
「あんな悪質の金貨のために私に文句をつけるなんて恥しく〔ママ〕はないのですか。私を信じなさい。あなたがこんな人と知っていたら、あなたからお金を借りるのではなかった。実際私は―彼は続ける―私の商品を売ったのではないのですぞ。」
(同上*5

 これらの金貨の区別をつけるために、主に金貨に刻まれた皇帝の肖像に因んで名称がつけられた。例えば、グルジア系貴族グレゴリオス・パクリアノスの修道院設立文書において、自らの兄弟に管理を託した財産を以下の複数の金貨で表している、"ῥωμανᾶτον, τραχὺ μονομαχᾶτον, δουκᾶτων τε καὶ σκηπρτρᾶτον, πρὸς δὲ καὶ μιχαηλᾶτον"*6。この内「ロマナトン」(ῥωμανᾶτον)、「モノマカトン」(μονομαχᾶτον)、「ドゥカトン」(δουκᾶτων)、「カエラトン」(μιχαηλᾶτον)は、それぞれロマノス3世アルギュロス(在位1028-1034)、コンスタンティノス9世モノマコス(在位1042-1055)、コンスタンティノス10世ドゥカス(在位1059-1067)、ミカエル7世ドゥカスの肖像が入った金貨の名称である。

 これらの名称は金貨の価値の差異を示すものであるから当然交換レートもある。南イタリアのバーリに残る1089年付のある文書には40 romananti(ロマナトン)が120 michalati(ミカエラトン)と等価であると記述されているという*7

 こうした皇帝の肖像による金貨の名称は上記のようなギリシア語やラテン語だけでなく、グルジア語にもみられる、dukati, hromanti, dukad-mikhaylati, votaniati (あるいはbotaniati)はそれぞれ、コンスタンティノス10世、ロマノス4世ディオゲネス(在位1068-1071)、ミカエル7世、ニケフォロス3世ボタネイアテス(在位1078-1081)にあたるという*8

 11世紀のビザンツの金貨名称についてより詳しく知るためには以下の文献が有用である。

Philip Grierson, Catalogue of the Byzantine Coins in the Dumbarton Oaks Collection and in the Whittemore Collection, Volume 3. Leo III to Nicephorus III, 717–1081, Washington, D.C., 1973, esp. pp. 44-62.

*1:一般法人日本聖書協会ホームページ、聖書本文検索より

*2:比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史 権力と図像の千年』(中公新書)、中央公論新社、2018年、ii頁

*3:Cécile Morrisson, "Byzantine Money: Its Production and Circulation", in Angeliki E. Laiou, et al. eds., The Economic History of Byzantium: From the Seventh through the Fifteenth Century, Washington, D.C., 2002, v. 3, pp. 909-972, esp., pp. 930-932.

*4:井上浩一「≪史料紹介≫ケカウメノス『ストラテギコン』」(中)『人文研究』<大阪市立大学文学部>第40巻第10分冊、1988年、67頁

*5:前掲書、68頁

*6:Paul Gautier, "Le typikon du sébaste Grégoire Pakourianos", Revue des études byzantines, t. 42, 1984, pp. 5-145, surtout p. 41; cf. Nicolas G. Svoronos, "Recherches sur le cadastre byzantin et la fiscalité aux XIe et XIIe siècles : le cadastre de Thèbes", Bulletin de Correspondance Hellénique, 83-1, 1959, pp. 1-145, surtout p. 99.

*7:C. Morrisson, "Le michaèlaton et les noms de monnaies à la fin du XIe siècle", Travaux et mémoires (Centre de recherche d'histoire et civilisation Byzantines), 3, 1968, pp. 369-374, surtout p. 371.

*8:Robert P. Blake, “Some Byzantine Accounting Practices Illustrated from Georgian Sources”, Harvard Studies in Classical Philology, v. 51, 1940, pp. 11-33, esp. 25-26.