「ウォーターローの海戦」?

 先日、平井呈一訳『吸血鬼ドラキュラ』(創元推理文庫)を読んだ。

 登場人物の一人ジョナサン・ハーカーが「弁理士」とされていたが、やっている仕事は「事務弁護士」のそれだよなと思っていたら、案の定原語は"solicitor"だった。

 またジョナサンの婚約者で後に彼の妻となるミナの日記の中のイングランドの北海に面する港町Whitbyの老人について以下の記述がある。

自分じゃかれこれ百歳だと言っているが、ウォーターローの海戦には、グリーンランドの水軍に加わった一人だそうだ。*1

 ウォータールーの戦い(「ウォータールー」でも「ワーテルロー」でもなく「ウォーターロー」という表記されているが)は会戦であっても海戦ではないし、グリーンランドデンマーク領で、デンマークナポレオン戦争でフランス側について敗戦国になっている。イギリス人が参加する「水軍」があったとは思えない(「百日天下」中の対仏同名にも加わってないようだ)。原文を確認すると以下の通りだった。

He tells me that he is nearly a hundred, and that he was a sailor in the Greenland fishing fleet when Waterloo was fought.*2

 (私訳: 彼は私に、自分はほぼ百歳で、ウォータールーの戦いが行われていた頃にはグリーンランド沖への漁船団で水夫をしていたと言った。)

  "fishing fleet"を"fighting fleet"と見間違えたことから発生した誤訳のようである。

*1:ブラム・ストーカ著、平井呈一訳『吸血鬼ドラキュラ』(創元推理文庫)、東京創元社、1971年4月初版、2011年11月45版、105頁。

*2:Bram Stoker, Dracula (New York : Grosset & Dunlap, c1897), p. 60.

冗談について西洋古典より三つの引用

アリストテレス『弁論術』2巻第4章1381a30-40(戸塚七郎訳、岩波文庫、1992年、180頁)

 また、上手に冗談を飛ばすことも、冗談をうまく受け止めることもできる人々も、友人である。なぜなら、これらの人々は、相手がからかうのを笑って聞き流すこともできるし、即妙に切り返しもするので、いずれも、共に楽しむという、隣人と同じ目標にひた進むことになるからである。

タキトゥス年代記』第15巻68節(国原吉之助訳、岩波文庫、下、1981年、295頁)

 それはさておき、ネロがウェスティヌスを恨むようになったいきさつは、遠く二人の親密な交際に根ざしている。つまり、その間にウェスティヌスは、元首の小胆を底まで見抜いて軽蔑するようになる。ネロのほうは、たびたび刺のある冗談でもって翻弄されているうち、友の過激な気性を恐れるようになった。じっさい冗談が、申し分なく真実を根拠としているとき、あとあとまで苦い思いを残すものである。

マキァヴェッリ『ディスコルシ』(永井三明訳『マキァヴェッリ全集』2巻、筑摩書房、1999年、263頁)
(「いにしえの人の言葉」は前掲と同じはずだが意味がほぼ逆になっている。)

 すでに説明したように、ローマ人は、他人をこきおろしたり、人の恥をあざけるようなことは、きわめて有害なことと考えていた。なぜなら、本心からの場合はもちろん、たとえ冗談で言うときでも、これほど人の心を傷つけ、怒りに燃え狂わせるものはないからである。だからこそ、いにしえの人の言葉にあるとおり、「実際、むきだしの冗談というものは、それが真実からかけ離れてしまっているときには、それ自身とげとげしい後味を残す」ものなのである。

 相手が上手く切り返せない「冗談」は将来に禍根を残すことになる。

北村薫『朝霧』を文庫版で読み直す

*このブログ記事は北村薫「朝霧」の内容の一部を引用しています。また読者として当該作既読の方を対象にしていますので、内容について詳しく述べてはいません。

 北村薫『朝霧』を読み返そうと思った。単行本(東京創元社、1998年4月)で持っているのだが、携行して読む便のために図書館で創元推理文庫版(2004年4月)を借りた。
 表題作「朝霧」を読んでいて、以下の箇所ではっと胸を突かれた。

 帰り道、神田の本屋さんに寄って、『万葉集』の、この歌の番号を調べた。五九九番である。
 家に帰って、本棚から祖父の持っていたであろう『万葉集』を探した。学生時代のものは岩波文庫かもしれない。そちらは分からなかったが、古い『折口信夫全集』があった。背表紙のすでに黄色く変色した本である。祖父のものだ。第四巻が『口譯萬葉集(上)』。円紫さんのいう通り、《鈴ちゃん》が使ったものとは、微妙に形が違う。歌は、開かれた本の中央に、ちょうど右ページの最後と左ページの最初に、裂かれるように二行に書かれていた。
 私はそれをじっと見つめた。

  朝霧のおほに相見し人故に、
  命死ぬべく恋ひ渡るかも

                                           (文庫版244-245頁)


 単行本を確認した。ここではこの歌は「裂かれ」ていなかった(208-209頁)。
 文庫版での組版が意図的なものか、それとも偶然なのかはわからない。ただ、この文庫版を読んで「私」を追体験できたような気持になった。

グラウコンとマキァベッリ

 ジョナサン・ハイト(高橋洋訳)『社会はなぜ左と右にわかれるのか : 対立を超えるための道徳心理学』(紀伊國屋書店、2014年)を読んだ。この本の中で「グラウコン主義」という用語が繰り返し用いられている。これはプラトンの『国家』第2章(357A-369B)で、その登場人物であるグラウコン(とアデイマントス、両者ともプラトンの兄)がソクラテスに提起した問題*1に基づいている。簡単に言うと「捕まった場合のこと(とりわけ自分の評判が傷つくこと)を恐れるがゆえに、人は有徳になるにすぎない」(ハイト前掲書、130頁)という意味で、「自分の評判に傷がつく可能性がなければ、人はひどい態度をとることが多いという、私の見解と一致する考えをはっきりと述べているので、彼【グラウコン―引用者】を代弁者として起用した」(同書、549頁註3)とのことだ。
 ハイトは別の個所でこう述べている。

本書を通じて「グラウコン主義」の代わりに「マキャベリ主義」という用語を使うこともできた。ただ「マキャベリ主義」と言うと、暗い側面が誇張され、トリックを駆使しながら人民を支配する統治者のイメージを喚起する。道徳的な生き方とは、権力や支配より、協力や協調に関わるものだと私は考える。道徳的な思考における不誠実や偽善は、他人をして、自分に好意を抱かせ、協力させることを目的とする。よってグラウコン主義という言葉を用いた。
(同書、584-583頁[逆ノンブル、14-15頁]註10)

 ハイトの念頭にあったのは『君主論』18章「君主たるもの、どう信義を守るべきか」の以下の記述だろうか。

 要するに、君主は前述のよい気質を、何から何まで現実にそなえている必要はない。しかし、そなえているように見せることが大切である。いや大胆にこう言ってしまおう。こうしたりっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。そなえているように思わせること、それが有益なのだ、と。
(池田廉訳「君主論」『マキァヴェッリ全集』1、筑摩書房、1998年、59頁)

 それはそれとして、通俗的な「マキャベリ主義」イメージが「トリックを駆使しながら人民を支配する統治者のイメージを喚起する」ということの一例ではあるだろう。

*1:藤沢令夫訳『国家』、岩波文庫、1979年、上102-131頁。この問題についてはさしあたり以下の文献を参照。中澤務「グラウコンとアデイマントスの問い : 『国家』第II巻における"Why be moral?"の問題」『関西大学哲学』26号、2008年、203-222頁(http://hdl.handle.net/10112/984)。

ビザンツの科学分野における貢献

 イスラム科学や西欧中世の科学に比べて、科学史におけるビザンツの貢献への関心は概して薄い。

 ビザンチンの学者たちは上記のような知的優位にあったにもかかわらず、彼らの良き富を利用しなかった。「学問の園」は科学史、自然哲学史においてほとんど何も花を咲かせなかった。しかしながらこれらの学問領域におけるビザンチンの成果に関するどんな判断も、これらの学科に関する文献の大部分がいまだ出版されておらず、それゆえ大部分読まれていないということを理解した上で下されなければならない。*1

 せいぜいギリシア語古典文献の保存者として特筆されるくらいである。

 ビザンチンの学者たちが、そうであると思われるのだが、自然哲学や科学において知的に生産的でなかったと思われるが、それはどうしてかということを知ることも重要ではあるけれども、彼らの本当の知的重要性はギリシアの科学的伝統の保存と伝達というところにあるということを認めることの方がはるかに重要で適切である。ビザンチン人はこの計り知れない貢献によリヨーロッパ中世において正しくも「世界の司書」と呼ばれたのであった。この意味でビザンチン帝国は科学と学問の歴史において重要な役割を果たしたのである。*2

 あるアメリカの科学史家が「なぜ誰かがビザンツの科学について関心を持つべきなのか?」というブログ記事で、ビザンツ学者でさえ、これに関心が薄いとしている。

他方、ビザンツの科学の欠如は、ビザンツ学者自身の否定的な評価をも繰り返す。Cyril Mangoは、明らかに主要なビザンツ学者の一人だが、最近従来通りに「ビザンツは科学におけるいかなる発展にも帰されていない…」と指摘した。科学的成果の欠如の例として以下のように述べている。

"科学は、もしそれが正確な言葉ならばだが、聖書に基づき、世界が長方形の箱のように形作られていることを証明した、コスマス・インディコプレウテス(6世紀)のキリスト教地誌、によって代表された。"(2)
(2)Mango, “Byzantium’s Role in World History” in The Oxford Handbook of Byzantine Studies, ed. E. Jeffreys, J. Haldon, and R. Cormack (Oxford: OUP, 2008), 958, 959–60.*3

 だが、C. Mangoの原文はビザンツの科学への貢献の欠如についての彼の見解を述べたものではない。
 上述のブログに引用された「ビザンツの世界史における役割」という文章の最初の方で、彼は東欧と西欧のビザンツ学者においてビザンツに対するスタンスの違いがあるのではないかと述べる。東欧の歴史家の代表者として、ソ連出身のA. P. Kazhdanが、ビザンツの本質を「思想的全体主義」で定義しようとしていることを述べている。*4それに対して、J. B. Burry、Norman Baynes等の西欧の歴史家はビザンツが自分たちに対する貢献を探し求めようとするとしている。そのような貢献に「アジアからの攻撃に対するヨーロッパの防御壁」の役割や、ギリシア思想やローマ法の保存・伝播者としての役割等が挙げられているが、「寛大な査定にもかかわらず、ビザンツは科学、哲学、政治理論のいかなる進展、あるいは偉大な文学を生み出すことについて功を帰されていない。」*5としている。つまりこの評価はMango自身のものではない。
 また、Mangoは後の方で、ビザンツのスラブ人に対する「教育」への貢献について論じる中で以下のように述べている。

 一つだけ明らかなことがある。スラブ人の改宗は(ギリシアの一部を除いて)ギリシア語圏の拡大を伴うものではなかったことである。ビザンツ共同体の共通言語は、ビザンツ自身が書き言葉として作り上げるのを援助した教会スラブ語であり、そうであり続けた。ビザンツはしばしばこれについての寛容を称賛される。*6

そのため、スラブ人はギリシア語を学ぶことを強いられず、ギリシア語で書かれた文献は教会スラブ語に翻訳されたのだが、それは主に典礼書や聖人伝、年代記などで、「科学は、もしそれが正確な言葉ならばだが、聖書に基づき、世界が長方形の箱のように形作られていることを証明した、コスマス・インディコプレウテス(6世紀)のキリスト教地誌によって代表された。」*7
そしてこの後、Mangoは、ビザンツがスラブ人にもっと知的な文献をスラブ人に伝えず、その面では重要な役割を果たさなかったことしている。つまりMangoは東欧への科学の伝播にはビザンツは貢献していなかったと述べているだけなのであって、ビザンツの科学面における成果が欠如していることを述べているのではない。

*1:E・グラント(小林剛訳)『中世における科学の基礎づけ: その宗教的,制度的,知的背景』知泉書館、2007年、294頁

*2:前掲書、300−301頁、註記号は省いた。

*3:Darin Hayton, "Why Should Anybody Care about Byzantine Science?", PACHSmörgåsbord - Philadelphia Area Center for History of Science, Sept. 23, 2010. http://www.pachs.net/blogs/comments/why_should_anybody_care_about_byzantine_science/(accessed, Dec. 24, 2014). 原文の註番号は型付き数字。また原文での引用は字下げであったが、わかりやすいよう訳出においては二重引用符に変えた。

*4:これについては既に先月連続ツイートで紹介している(https://twitter.com/Basilio_II/status/528822246207275009以下のツイート)。

*5:C. Mango, “Byzantium’s Role in World History”E. Jeffreys, J. Haldon, & R. Cormack eds.,The Oxford Handbook of Byzantine Studies , OUP, 2008, pp. 957-961, esp. p. 958.

*6:Ibid., p. 959.

*7:Ibid., pp. 959f.

アメリカ合衆国とアドリア海の2つの共和国

 先日、バリシァ・クレキッチ著、田中一生訳『中世都市ドゥブロヴニク : アドリア海の東西交易』(彩流社、1990年)を読んだ。この本は原題Dubrovnik in the 14th and 15th centuries : a city between East and West (University of Oklahoma Press, c1972)の示すとおり、14、5世紀のドゥブロヴニク(ラグーザ)共和国の政治・経済・文化などについて叙述されているものだが、「結語」において、この共和国の16世紀から滅亡までについて概観がなされている。
 その中にアメリカ合衆国にまつわるエピソードがある。独立戦争後の1782-1783年、パリにおいて和平交渉を行っていたアメリカ合衆国の代表は、ヨーロッパ諸国と次々と友好通商条約を結んでいったが、ドゥブロヴニク(ラグーザ)共和国ともそれを望んだらしい。同共和国パリ駐在大使フランチェスコ・ファヴィはそれを本国政府に熱心に勧めた。

 興味ぶかいことに、ファヴィはアメリカの将来について予言者のような見通しをもっていて、自国の政府に対して長々とアメリカ革命につき、合衆国との貿易に関して、またそれと関係した事柄について述べている。一七八三年七月ファヴィは特に次のようなことを述べていた。「最も聡明な政治家たちが行なった、アメリカはひとたび自由になればヨーロッパを併呑するだろうという予言は、実現しはじめています」。ヨーロッパから合衆国へ向けて大量の亡命者が流出していることに触れて、ファヴイはこう付け加えている。「このことは、技術や農業にさして好意をもたぬ政府の諸公の蒙を啓くに違いありません。もし彼らがより良き制度を採用しないならば、彼らの国々は日ならずして人口が激減するでしょう。アメリカはその成長を、ヨーロッパの悪しき政府に大いに助けられるということにもなりかねません。……いずれにしましても、あの国は地球上で最も繁栄する一国となるようであります」。後に、すなわち一七八三年九月の書簡で、ファヴィはこの点を再び強調している。「現在のところ、アメリカはさして富んでいません。だが将来、彼らの国富は国家の繁栄にともなって増大することは、疑いを容れぬところであります」。
(クレキッチ前掲書、168頁、太字による強調は引用者)

 これを読んで、私は塩野七生のエッセイ「ベンジャミン・フランクリンの手紙」(『イタリア異聞』新潮文庫、1994年[単行本は1982年刊]、201−207頁)を思い出した。これは、和平交渉中のアメリカ代表団が、ヴェネツィア共和国との友好通商条約を結びたいとの意向をヴェネツィアのパリ駐在大使ダニエル・ドルフィンに書簡で伝えたというエピソードについてのものである。ドルフィンはこの書簡を本国に送ると同時に次のような意見を付け加えたという。「アメリカ合衆国は、将来、世界で最も怖(おそ)るべき力を持つ国家になるでありましょう」(塩野前掲書、204頁、丸括弧内は原文ルビ、太字による強調は引用者)
 この両国のアメリカに対する姿勢は、似た経過をたどる。ドゥブロヴニクヴェネツィアの本国政府は、大使に他のヨーロッパ諸国の動向を調べさせたが、結局、大使の勧めにもかかわらず、イギリスに配慮してアメリカとの通商友好条約を結ばなかった。

 ヴェネツィア共和国はこの14年後、ドゥブロヴニク共和国は25年後に、どちらもナポレオンによって滅ぼされる。そして、ナポレオン失脚後、両市ともオーストリア支配下に入る。

「最初の近代人」神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世

 塩野七生神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位1220-1250)の評伝を近く出版する*1
 彼女は以前にも『サイレント・マイノリティ』(新潮文庫、1993年;単行本: 新潮社、1985年)所収の「イェルサレム問題」で、彼の「十字軍」について書いている。
 フリードリヒ2世については、佐々木毅プラトンの呪縛』(講談社学術文庫、2000年;単行本: 講談社、1998年)の序章に、とても興味深い記述があったことを思い出した。これはイギリスの教育学雑誌Journal of Educationに1944年11月から2回にわたって掲載されたOtto Neurath and J. A. Lauwerys"Nazi text-books and the future" という論文について書かれているもので、以下その部分を引用する。

 第二回目の論文においてこの二人は、一見したところ「中立」的に見える教科書の記述についての検討を続けていく。スタウフェン朝の皇帝フリードリヒ二世の例がまず取り上げられる。エルンスト・カントロヴィッツの作品やブルクハルトによって「最初の近代的支配者」と見なされているが、この人物の具体的な行為は残虐で非寛容的である。それがあたかも「寛容な、啓蒙され、前向きな」人物であるかのように叙述されている。これでは将来、ヒトラーについても同じような記述がなされるのを覚悟しなければならないようなものではないか、と二人は慨嘆する。問題なのはこうした強力で無慈悲な暴君の行為がこれらの教科書執筆者たちによって、取り繕われ、実際には天才の行為として賞賛されていることだというのである*2

 フリードリヒ2世には、人体実験の逸話が残っているように、「怪物」的なところがあった。私の記憶が正しければ、モンタネッリらが書いた『ルネサンスの歴史』*3は、フリードリヒの死から始まっていたが、彼の「怪物」性についても描写されていたはずである。
 塩野の著作ではそのあたりのところがどのように描写されるのであろうか?

*1:『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』上・下、新潮社、2013年12月18日刊行予定http://www.shinchosha.co.jp/blog/special/309637.html

*2:佐々木毅プラトンの呪縛』講談社学術文庫、2000年、38−39頁

*3:モンタネッリ, ジェルヴァーゾ著 ; 藤沢道郎訳『ルネサンスの歴史』上・下、中央公論社、1981−1982年;中公文庫、1985年