そこには、だれの肖像と銘があるか:11世紀ビザンツの金貨の品位低下と皇帝肖像に因む金貨名称

「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
(ルカによる福音書(新共同訳)/ 20章 24-25節)*1

 比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史 権力と図像の千年』(中公新書、2018年9月)の「はじめに」に以下のような文章がある。

 現在の日本のお金にも、紙幣には著名人の肖像が描かれている。たとえば福沢諭吉が描かれている現在の一万円札は、しばしば「諭吉さん」などと比喩的に呼ばれる。これに対してローマの貨幣が「アウグストゥスさん」と呼ばれたという記録は、残念ながら残っていない。もしそのように呼ばれていたとするならば、第二代皇帝が新たに即位したときには、その名前から「ティベリウスさん」とでも呼ばれ方が変わったのかもしれない。*2

  しかし、11世紀ビザンツの金貨には描かれている肖像によって独自の名前で呼ばれていて、それには重要な意味があった。

 11世紀中ビザンツ金貨(ノミスマ・ヒスタメノン)の金の含有量はミカエル4世(在位1034-1041)の治世まで90%であったが、その後加速的に純度が下がっていく。コンスタンティノス9世モノマコス(在位1041-1055)からロマノス4世デイオゲネス(在位1068-1071)の治世間に87%から70%、ミカエル7世ドゥカス(在位1071‐1078)からアレクシオス1世コムネノス(在位1081-1118)による幣制改革以前の1092年までの間に35.8%から10.6%まで下落した*3。そのため取引上、どの皇帝の肖像が入った金貨であるか区別する必要があった。11世紀の地方貴族ケカウメノスの以下の文章はそのことを物語る。

「私はこれこれの金を商売のために用意していました。けれどもこの極印の貨幣ではなく、これこれの(汝がそれをもっていることをこの男は知っているのだ)極印の貨幣が欲しいと相手はいっています。あなたがをそれをお持ちなのを―と彼は続ける―聞きました。私にご好意をお持ちなら、私がこの取引をしそこなうことがないよう、お貸し下さい。私は大いに儲けるつもりです。明日あるいは一週間のうちに、あなたはご自分のお金をたくさんの贈物がついて取り戻すでしょう。」
(ケカウメノス『ストラテギコン』(井上浩一訳) 、第43章*4
「あんな悪質の金貨のために私に文句をつけるなんて恥しく〔ママ〕はないのですか。私を信じなさい。あなたがこんな人と知っていたら、あなたからお金を借りるのではなかった。実際私は―彼は続ける―私の商品を売ったのではないのですぞ。」
(同上*5

 これらの金貨の区別をつけるために、主に金貨に刻まれた皇帝の肖像に因んで名称がつけられた。例えば、グルジア系貴族グレゴリオス・パクリアノスの修道院設立文書において、自らの兄弟に管理を託した財産を以下の複数の金貨で表している、"ῥωμανᾶτον, τραχὺ μονομαχᾶτον, δουκᾶτων τε καὶ σκηπρτρᾶτον, πρὸς δὲ καὶ μιχαηλᾶτον"*6。この内「ロマナトン」(ῥωμανᾶτον)、「モノマカトン」(μονομαχᾶτον)、「ドゥカトン」(δουκᾶτων)、「カエラトン」(μιχαηλᾶτον)は、それぞれロマノス3世アルギュロス(在位1028-1034)、コンスタンティノス9世モノマコス(在位1042-1055)、コンスタンティノス10世ドゥカス(在位1059-1067)、ミカエル7世ドゥカスの肖像が入った金貨の名称である。

 これらの名称は金貨の価値の差異を示すものであるから当然交換レートもある。南イタリアのバーリに残る1089年付のある文書には40 romananti(ロマナトン)が120 michalati(ミカエラトン)と等価であると記述されているという*7

 こうした皇帝の肖像による金貨の名称は上記のようなギリシア語やラテン語だけでなく、グルジア語にもみられる、dukati, hromanti, dukad-mikhaylati, votaniati (あるいはbotaniati)はそれぞれ、コンスタンティノス10世、ロマノス4世ディオゲネス(在位1068-1071)、ミカエル7世、ニケフォロス3世ボタネイアテス(在位1078-1081)にあたるという*8

 11世紀のビザンツの金貨名称についてより詳しく知るためには以下の文献が有用である。

Philip Grierson, Catalogue of the Byzantine Coins in the Dumbarton Oaks Collection and in the Whittemore Collection, Volume 3. Leo III to Nicephorus III, 717–1081, Washington, D.C., 1973, esp. pp. 44-62.

*1:一般法人日本聖書協会ホームページ、聖書本文検索より

*2:比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史 権力と図像の千年』(中公新書)、中央公論新社、2018年、ii頁

*3:Cécile Morrisson, "Byzantine Money: Its Production and Circulation", in Angeliki E. Laiou, et al. eds., The Economic History of Byzantium: From the Seventh through the Fifteenth Century, Washington, D.C., 2002, v. 3, pp. 909-972, esp., pp. 930-932.

*4:井上浩一「≪史料紹介≫ケカウメノス『ストラテギコン』」(中)『人文研究』<大阪市立大学文学部>第40巻第10分冊、1988年、67頁

*5:前掲書、68頁

*6:Paul Gautier, "Le typikon du sébaste Grégoire Pakourianos", Revue des études byzantines, t. 42, 1984, pp. 5-145, surtout p. 41; cf. Nicolas G. Svoronos, "Recherches sur le cadastre byzantin et la fiscalité aux XIe et XIIe siècles : le cadastre de Thèbes", Bulletin de Correspondance Hellénique, 83-1, 1959, pp. 1-145, surtout p. 99.

*7:C. Morrisson, "Le michaèlaton et les noms de monnaies à la fin du XIe siècle", Travaux et mémoires (Centre de recherche d'histoire et civilisation Byzantines), 3, 1968, pp. 369-374, surtout p. 371.

*8:Robert P. Blake, “Some Byzantine Accounting Practices Illustrated from Georgian Sources”, Harvard Studies in Classical Philology, v. 51, 1940, pp. 11-33, esp. 25-26.