『喜嶋先生の静かな世界』と「キシマ先生の静かな生活」のあいだ

 森博嗣『喜嶋先生の静かな世界』が刊行されたの知った時、似たようなタイトルの短編を読んだことがあったので、『僕は秋子に借りがある』のように再編された短編集の表題作だと思っていた。それは短編集『まどろみ消去』に所収されている「キシマ先生の静かな生活」であった(英文タイトルは同じThe Silent World of Dr. Kishima)。

 『喜嶋先生の静かな世界』と「キシマ先生の静かな生活」長編化に伴いかなりエピソードが追加されている(以下、短編は「キシマ先生」、長編は『喜嶋先生』と略し、それぞれの登場人物のほうは、キシマ先生、喜嶋先生と表現する)。主な違いは『喜嶋先生』の登場人物の多さである。「キシマ先生」では主な登場人物は、主人公の「ぼく」、キシマ先生、そして計算機センタの職員の沢村さんだけであった。『喜嶋先生』は、喜嶋先生、主人公の「ぼく」(橋場という苗字がある)、同級生の清水スピカ(「キシマ先生」では主人公は助手になってから出会っ多女性と結婚しているが、学部卒業後彼女と交際して助手になった後結婚している)、所属講座の教授森本先生、主人公の卒論の実質的な指導をしたD3の中村さん(当初、彼が「キシマ先生」の主人公「ぼく」である叙述トリックの可能性を疑っていた)、学部の学年は一つ上だったが、卒業後一年遅れて別の専攻から主人公と一緒に修士課程前期に進学した女性櫻居さんである。

 「キシマ先生」はメルヒェンのような感じなので気にならなかったが、『喜嶋先生』では喜嶋先生がなぜ助教授になったか、結婚後どういう生活を送るつもりだったのか、考えていたのかということがどうしても気になってしまう。喜嶋先生は決して世間知らずではない。
 喜嶋先生が中村さんや主人公に推薦した助手のポストは本来先生自身に向けられていたポストではないかということだが、沢村さんからの計算機センタの相談員就任の依頼も主人公に振っている。これは、沢村さんの依頼であろうと生活が乱されることは拒否する喜嶋先生の性格を表していて、これが最後の沢村さんの悲劇につながるのではないか。

 あと、主人公を二度「羨ましい」と言う櫻居さんの存在が、主人公と喜嶋先生、主人公とスピカとの関係についての一つの参照軸となっていると思う(櫻居さんと連絡が取れなくなっても簡単に諦める主人公が連絡が取れなくなった喜嶋先生にはどうにかして取ろうと努力する、櫻居さんにはどうも話を聞きたがってもらいたがっているようだと感じるだけだが、大学院に進学して一カ月ほどしてから不意に主人公のもとを訪れたスピカとは当の櫻居さんの話題することになるなど)。