ヴェネツィア共和国のドージェについて

 前々から気になっていたビザンツ研究者渡辺金一氏の『海の都の物語』についての書評を読んだ*1。そこにこう書かれていた。

塩野さんが元首という訳語をあてているドージェとは、語源的にみれば、ラテン語のドゥクスのイタリア語化した言葉、つまり、本来は、さきにみたように、コンスタンティノープルローマ帝国のイタリア統治の軍事・行政地区の、その長官を意味する言葉なのである。いずれにせよ、さいしょから元首制というものがあったわけではない。さらにはまた、元首は世襲制でこそなかったものの、いったん選ばれれば終身制であった。そして、また、最初の頃は、市民大集会で選出されたとすれば、それを選挙王制と区別する標識は、いったい何処にあるのだろうか。いや、それよりも、市民大集会とはいったい何であり、また、市民大集会の選挙が、元首をきめる、いってみれば合憲的な手続きだとするコンセンサスは、どうして生まれてきたのだろうか。疑問は次から次へと湧いてくる*2

 それで、『海の都の物語』を読み直したら、次のように書かれていた。

六九七年、ヴェネツィア人は、はじめて、住民投票によって、元首(ドージェ)を選出する。これは、一七九七年にヴェネツィア共和国が崩壊するまで絶えることなく続いた、選挙による選出と、終身の役職であるこの制度の最初であった*3

 最初のドージェ選出について、中平希『ヴェネツィアの歴史 海と陸との共和国』で確認した。

 ドゥクスヴェネツィアの言葉で「ドージェ(Doge)」と呼ばれた。ヴェネツィア共和国の正史によると、ヴェネツィア人がビザンツ帝国から離れてはじめて独自に選出した初代ドージェは、六九七年に選出されたパオロ・ルチオ・アナフェスト(パウリキウス)である。しかしこの人物は、研究者ロベルト・チェッシによるとラヴェンナ総督パオロと同一人物であった。ヴェネツィア人の代表として確証があるのは、七二六年選出のオルソである。ビザンツ皇帝が同年に偶像崇拝禁止を徹底するために聖画像破壊令イコノクラスムを出したことに反発した選出といわれるが、この代表者はやがてビザンツ皇帝によって執政官イパートとして承認された。ビザンツ皇帝の承認を重要視した証拠として、オルソとその次の元首ディオダート・オルソが、本人の名前とともにイパートを名乗っている。

 ヴェネツィアのドージェは、九世紀以降、ビザンツ帝国と密接な関係を保ちつつも次第にビザンツ帝国から自立し、ヴェネツィア人自らの政治的指導者となった*4

 「イパート」はビザンツの名誉称号・爵位の「ヒュパトス(ὕπατος)」であろう。ラテン語の「コンスル(consul)」にあたる*5

*1:塩野七生『海の都の物語』 地中海世界へ無限の興味をそそる」(思想と潮流)『朝日ジャーナル』24巻15号、1982年、65-67頁。

*2:同上、66頁。

*3:塩野七生『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』上巻、中公文庫、1989年、18頁。

*4:中平希『ヴェネツィアの歴史 海と陸との共和国』創元社、2018年、39-40頁。

*5:井上浩一『ビザンツ帝国岩波書店、1982年、125-126頁。