G・K・チェスタトン「秘密の庭」における「カトー」

*G・K・チェスタトン「秘密の庭」(『ブラウン神父の無心(童心)』所収)の内容の一部に触れています。

 昨年12月にG・K・チェスタトンのブラウン神父物の第一短編集The Innocence of Father Brownの新訳が、ちくま文庫で出版された(南條竹則/坂本あおい訳『ブラウン神父の無心』ちくま文庫、2012年、以下ちくま文庫版と略す)。それに所収された2番目の短編「秘密の庭」The Secret Gardenの最後の一文は以下のようになっている。

そして自殺者の何も見えぬ顔には、カトーの誇りにも勝るものが浮かんでいた。(ちくま文庫版、74頁)

ここで「カトー」に以下のような訳註がついている。

前二三四年-前一四九年。ローマの将軍。カルタゴ殲滅に執念を燃やした。(同上)


また、先行訳の創元推理文庫版(中村保男訳『ブラウン神父の童心』、1982年)では以下のようになっていた。

この目を閉じた自殺者の顔には、カルタゴ必滅をさけんだ勇将カトーの誇りがにじみ出ていた。(創元推理文庫版、75頁)

 この部分の原文は以下の通り。

and on the blind face of the suicide was more than the pride of Cato.*1

 両訳ともこの「カトー」を大カトー*2と解釈している。しかし、私には大カトーよりも彼の曾孫、小カトー*3のことを指しているのではないかと思われる。自決という最期において、「秘密の庭」の犯人と小カトーが一致するだけでなく、その「確信犯」ぶりについても両者が重なるように思われるからだ。
 このような指摘はすでに先行文献によってなされているかもしれない。時間がある時に探してみよう。

 余談だが、青空文庫直木三十五によるこの話の翻訳がある*4。しかし、この訳では「カトー云々」の部分が端折られてしまっていた。

[2013年4月3日追記]
 The Innocence of Father Brown新潮文庫版の翻訳は『ブラウン神父の純智』というタイトルで出版されている(橋本福夫訳、新潮文庫、1959年、以下新潮文庫版)。これはThe Secret Gardenが「密閉された庭」と訳され、該当箇所は以下のとおりである。

そして、この自殺者の眼を閉じた顔には、カトーの誇り以上のものが浮かんでいた。(新潮文庫版、74頁)

 この「カトー」の部分に以下の割註がついている。

(註・自殺したローマの高潔な政治家ウティカのカトーであろうか?)

 「ウティカのカトー」は、小カトーのこと。小カトーと解釈する翻訳は既に存在していたことが確認された。

「28歳研究者 原子力を問う」(『朝日新聞』2012年8月14日夕刊3面)

 昨日の朝日新聞夕刊の文化面に、『「フクシマ」論 : 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社, 2011年)の著者開沼博と『核エネルギー言説の戦後史1945-1960 : 「被爆の記憶」と「原子力の夢」』(人文書院, 2012年)の著者の山本昭宏の「対談」記事が載っていた。ともに28歳の研究者ということで「28歳の研究者 原子力を問う」というタイトルだった*1
 その最後の部分は以下のようになっている。

 ――今後のエネルギー政策を国が明確に示せないことをどう見ますか
 開沼 経済成長で社会をよくするという目標を失って「政治の言葉」が無効化し、せり出してきたのが「市場の言葉」。経営者的な視点で不合理やむだを批判する言葉が非常に力を持ってきている。ここ10年ほど、その市場の言葉が原子力を礼賛してきたし、今も原子力を維持しようとしています。
 山本 「市場の言葉」を私は「消費者的メンタリティー」ととらえています。生まれてから一度も経済成長を経験していない今の学生たちは、これ以上は生活レベルを下げたくない、あわよくば、少しでも得したいと考えている。そんな「消費者的な連帯」が保守的な方向に向かっています。
 開沼 日本は成長という「夢」を見てきて、そこから覚めたくない、とだだをこねているうちに今のようになってしまった。では、夢から覚めたら不幸かというと、「それなりにいいよね」と若者は感じている。それをニヒリズムと批判する人たちには、逆に「夢から覚めましょうよ」と言いたいですね。

〔太字強調引用者〕

 山本は「学生」が現状以上の生活レベルを望んで保守化していると言っているのに対し、開沼は「若者」が、経済成長の「夢」から覚めても「それなりにいいよね」と感じていると述べている。開沼の言う「若者」がどの程度の範囲を示すのかわからないが、普通に考えれば、山本の言う「学生」も入る概念であるだろう。「対談」の他の部分はともかくこの部分では話が噛み合っていない。これで終わりにされてしまうと、読んでいる側としては、落ち着かない。ここからもっと掘り下げた話を読みたかった。話が「原子力」から離れてしまうとしても。

*1:朝日新聞』2012年8月14日夕刊3面

STSの方法論はそもそも「科学vs.社会」を前提としている?

*引用文中の句読点は「、」「。」に統一した。

 STSの政治論的転回関係の文献を読んでいく中で以下の文章を見つけた。

 ここでは、STSの方法論が「科学vs.社会」という概念対を下敷きにしていることだけを確認しておきたい。たとえば藤垣裕子は、STS研究の初学者向けに事例分析の方法論を定式化している(藤垣 2005)。それは年表作成に始まって既存の枠組みへの懐疑に至るまでの五つのステップに分けられているが、注目すべきは、その第三のステップに、専門家と社会の側(裁判所、世論、地域住民)の主張の違い(科学的合理性と社会的合理性のずれ)の把握が設定されている点である。
 こうした把握が不可欠なステップとして含まれるためには、選ばれる科学現象は以下のような条件を満たす必要がある。すなわち、その「科学」現象は「社会」生活に何らかの問題を引き起こしており、その問題に関する主張において専門家と社会の側が議論する空間がある程度は設定されており、そして両者の主張が異なっており、その主張の根拠となる合理性には、科学的合理性と社会的合理性として定式化できるような差異がある、といった条件である*1

 上記の文章に引用されている(藤垣 2005)の事例分析の方法のステップを以下に引用する。

① 年表をつくってみよう。
② 利害関係者を書き出してみよう。
③ 各利害関係者の違いをまとめてみよう。
 ③-1 専門家の主張をまとめてみよう(専門誌ではそのように扱われているか)。
     専門家内の主張のずれをみてみよう(合意があるか。合意がまでないのか)。
 ③-2 専門家の主張と社会の側(裁判所、世論、地域住民)の主張の違いをまとめてみよう(科学的合理性と社会的合理性のずれはどこにあるか)。
④ 論点を可視化してみよう。
⑤ 問題のフレーミングを疑ってみよう。既存の枠組みを疑ってみよう*2

 また、小林傳司氏はSTS研究の領域に属する問題を扱った論集の冒頭で「社会的合理性」の「科学的合理性」への優越を謳っている。

 われわれの基本的視点は、社会における科学技術のあり方を検討する際に優先されるべきは、「科学的合理性」ではなく「社会的合理性」だということである。このことはもちろん、「科学的合理性」の無効を宣言するものではない。ただ、「科学的合理性」は「社会的合理性」の統制のもとで、その有効性と限界が測定され、評価されなければならないのである。そして、この両者の関係こそが、本書で繰り返し語られる「公共圏」あるいは「公共空間」において討議されるべき中心課題なのである*3

 STSの研究対象として選ばれた「科学」現象において「科学的合理性と社会的合理性のずれ」が見出され、しかも検討の際に優先されるべきは「科学的合理性」ではなく「社会的合理正統言うことになれば、必然的に「科学」現象が否定的な評価を受けることにならないだろうか?場合によっては徒に「科学」と「社会」の間の対立を煽ることになりかねないのではないか*4

*1:中村和生「科学社会学における「社会」概念の変遷」酒井泰北斗ほか編『概念分析の社会学 : 社会的経験と人間の科学』ナカニシヤ出版、2009年、233−260頁、特に254頁。

*2:藤垣裕子「解題: Advanced-Studiesのために」藤垣編『科学技術社会学の技法』東京大学出版会、2005年、221-235頁、特に223-224頁。

*3:小林傳司「はじめに」小林傳司『公共のための科学技術』玉川大学出版部、2002年、3-5頁、特に3-4頁。

*4:おそらく、「第三の波」の議論などはそういうことに対する批判ではないかと私は思うのだけれど、科学社会学者松本三和夫氏はこの議論の「広範かつ持続的な反響にもかかわらず日本での認知度が低い。」と述べている[松本三和夫「「第三の波」をこえて:科学と社会の微妙な界面」『UP』39(7)、2010、8-13頁、特に9頁]。

「リスク・コミュニケーションの参与者の意図は、時に政治的である。」

 昨日、平川秀幸氏の以下のツイートを読んだ。

全米研究評議会(NRC)の89年の報告書Improving Risk Communicationより引用:『民主主義における他のコミュニケーションの場合のように、リスクコミュニケーションの参加者の意図は時に政治的である。』(続
https://twitter.com/hirakawah/status/209885810550521856

続)『すなわち、リスクについてのメッセージは、時にそれらを伝えられる人々の信条や行動に影響を与えることが意図される。リスクコミュニケーションは、有害物やリスクを含む意思決定、すなわちリスク管理の筋道の中で理解されねばならない。』 ←当然これは相互的・互酬的な関係を前提にしたもの。
https://twitter.com/hirakawah/status/209886356908941313

 引用の原文が書かれている箇所を見つけたので、パラグラフ全体を訳してみた。(太字は平川氏の引用箇所)

 民主主義における他のコミュニケーションと同様に、リスク・コミュニケーションの参与者の意図は、時に政治的である。すなわち、リスクについてのメッセージはそれが宛てられている先の人々の信念と行動に影響を与える傾向がある。なので、リスク・コミュニケーションはハザードとリスクを含んでなされる意思決定、すなわちリスク・マネジメントの文脈において理解されねばならない。リスクについてのコミュニケーションは、高度に技術的な性質の事案が他の論争的な問題よりもコミュニケーションを難しくするので、特別な注意に値する。私的なハザードに対処する人々と公的な決定に参画する人々を含む、リスクについての意思決定者は、自分たちが訓練を受けたことがない科学的な専門分野からの複雑で技術的な情報を探し出し、解釈する必要がある。彼らはその情報を生み出す専門家と意思疎通しなければならず、そしてある程度までは彼らに頼らなければならない。付随する選択は論争的で、重要な経済的利害に影響を与えていて、価値感を強固に保持しているので、専門家や彼らの雇用者を含む意思決定の参与者達は、感情に訴えかけ、事実をゆがめ、そしてその他の方法で自分達が望む方向に向くように、最終決定に影響を与えるべくコミュニケーションを用いる動機を持っている。それゆえ、技術的な問題についての議論において、非専門家と官僚がバイアスのない情報のために疑いなく頼ることができる参与者はいない。

As with other communication in a democracy, the intent of hte participants in risk communication is sometimes political. That is, messages about risk are sometimes intended to influence the beliefs or actions of those to whom they are adressed. Risk communication, then, must be understood in the context of decision making involving hazards and risks, that is, risk management. Communication about risk deserves special because the highly technical nature of the subject matter makes it more difficult than communication about other controversial issues. Risk decision makers, including individuals managing personal hazards and participating in public decisions, need to seek and interpret complex technical information from scientific disciplines in which they have not been trained. They must communicatte with, and to some extent rely upon, the experts who generate that information. Because the attendant choices are controversial, affecting important economic interests and strongly held values, participants in the decision process, including experts and their employers, have incentives to appeal to emotions, distort facts, and otherwise use communication to influence the ultimate choice in the directions they desire. Thus there are no participants in debates on technological issues on whom nonexperts and public offcials can rely unquestioningly for unbiased information. *1

ツイートとはニュアンスが異なっているように感じる。「互酬的」というよりも、利害が対立している両者の関係を表しているようである。

*1:Committee on Risk Perception and Communication, Commission on Behavioral and Social Sciences and Education,Commission on Physical Sciences, Mathematics, and Resources, National Research Council, Improving risk communication, Washington, D.C., 1989 http://www.nap.edu/openbook.php?isbn=0309039436, pp. 22f.

コリンズとピンチはホメオパシーを擁護していたのではないらしい。

 id:kumicitさんのブログ『忘却からの帰還』の3月5日付の記事「CSICOPを斬ってたSTS学者」にSTS学者Trevor J PinchとHarry M. Collinsの著書からの引用とkumicitさんによるその日本語訳が載せられていた。

If homeopathy cannot be demonstrated experimentally, it is up to scientists, who know the risks of frontier research to show why. To leave it to others is to court a different sort of golem - one who might destroy science itself.

ホメオパシーを実験的に実証できないのであれば、フロンティア研究のリスクを知る、科学者たちに、その理由を示すことが委ねられる。それを他人に任せるのであれば、科学自体を破壊するであろう別種のゴーレムを召喚することになる。

Harry M. Collins, Trevor J. Pinch: "The Golem: What You Should Know About Science", 1993 p.144 via Bricmont]*1

 上記の文章は、一見ホメオパシーをしているように見え、kumicitさんもそのように解釈されているが、以下の文献によるとそうではないらしい。

29. We do, however, wish to apologize to Collins and Pinch for misunderstanding their assertion that "If homeopathy cannot be demonstrated experimentally, it is up to scientists, who know the risks of frontier research to show why."(1993, 144). We accept their assurences [15] that they are not defending homeopathy or attempting to shift the burden of proof away from homeopathy's advocates*2.

(私訳)
29. 我々はしかしながら、コリンズとピンチに「もしホメオパシーが実験的に証明されることができないなら、理由を示すことが、フロンティア研究のリスクを知る科学者達の責任である。」(1993,144)という彼らの主張を誤解したことを謝りたい。我々は彼らがホメオパシーを擁護していたのではなく、ホメオパシーの擁護者から証明の責任を転嫁する事を試みたわけでもないという彼らの保証を受け入れる。

 [15]というのは上の論文が掲載されていたのと同じ本の15章のことであろう。そこにCollinsの以下の文章がある。

11. Incidentally, Bricmont and Sokal remark that Collins and Pinch say in The Golem (page 144 in the first edition, page 142 in the second) that "If homeopathy cannot be demonstrated experimentally, it is up to scientists, who know the risks of frontier research to show why." This appears to be a classic (mis)understanding out of context. The sentence―and I think any careful reader can see it―is not a defense of homeopathy, but a defense of a role of scientific expertise against the raids of stage magicians and the like*3.

(私訳)
11. ところで、ブリクモンとソーカルはコリンズとピンチがThe Golemの中で(初版の144頁、第2版の142頁)「もしホメオパシーが実験的に証明されることができないなら、理由を示すことが、フロンティア研究のリスクを知る科学者達の責任である。」と言ったことに言及している。これは典型的な文脈を外れた読み方(誤読)である。この文章は―そして私はいかなる注意深い読者もそれを理解できると思っているが―ホメオパシの擁護ではなく、舞台奇術師やそのようなものの侵入に対する科学の専門知識の擁護である。

 つまり、こう言いたかったのだろうか。ホメオパシーがだめだということは、科学者自身で明らかにするべきだ、(ジェームズ・ランディのような)マジシャンに任せると「科学自体を破壊するであろう別種のゴーレムを召喚することになる」と。

*1:http://blog.seesaa.jp/tb/255749478

*2:Jean Bricmont and Alan Sokal, "Reply to Our Critics" in Jay A. Labinger and Harry Collins eds., The One Culture?: A Conversation about Science, The University of Chicago Press, 2001, pp. 243-254, esp. p. 253, n. 29.

*3:Harry Collins, "One More Round with Relativism" in ibid., pp. 184-195, esp. p. 190, n. 11.

杉山滋郎「科学コミュニケーション」(『科学』973号、2005年5月、68‐84頁)を読んで思ったこと

 杉山滋郎「科学コミュニケーション」(『科学』973号、2005年5月、68‐84頁)を読んだ。この論考は「欠如モデル」についてかなり紙幅を割いている。その中に「「信頼性の」重要性」という節があり、冒頭で以下のように述べている。

 欠如モデルでは科学知識の欠如を問題視する。その背景には、一般の人々といえども科学にまつわる諸問題について自分の力で、自分の責任で適切に決定を下す―もちろん、必要に応じて専門家など他の人々の助言を受けてもいいのだが、最終的に自分の判断で決定を下す―ことができなければならない、という考えがある。そうであってこそ民主主義の社会が成り立つのだとも言われる。
(同論考、75頁、以下頁番号のみを挙げているのはこの論考からの引用。)

 しかし著者は、現実には他人への「信頼」が重要な役割を果たしているという。自分が毎日安心して床の上を歩くのや水道の水を飲むのは、それらの安全性は自分で確かめたからでなく、「しかるべき専門家や権威ある人(組織)を信頼して、そうしているのである。」(75頁)
 また著者はこうした信頼関係は科学に関わる場面だけで作用しているわけではないと言う。街中で多くの人とすれ違う時、いちいちそれらの人を警戒したり、何をしようとしているかを探ろうとはしない。「ふつうは、それら他人をまったく信頼し、あたかもそれらの人がいないかのようにみなして―このことを社会学者のギデンズなどは、「都会的無関心」(civil inattention)という―安心して街中を歩くのである。」(76頁)この信頼関係が崩れれば、もはやcivil inattentionは発動しない。

 同様に、われわれは科学を信頼している限りcivil inattentionでもって科学に接し、科学から恩恵を受けこそすれ、科学(者)に警戒心を抱いたり科学の中身にまで立ち入ってその正体を知ろうとは思わない。しかし、ひとたび信頼関係が崩れる科学について知りたくなる。科学はどこまで信頼できるのか〔中略〕、物事を決めるにあたって科学の言うことにどれほどの重きを置く必要があるのか、等々の問いを発し、専門家たちとの間で信頼関係の再構築をする。(76頁)

 この時に科学の知識内容や科学研究の方法に関心の目が向くことがあったとしても、最終的な目標はあくまで信頼関係を再構築することで、知識を得ることや研究の方法を知ること自体が目的でないと著者は言う。
 また、著者は欠如モデルの下での、「高度に発展した科学技術に囲まれて生活しているのだから、それに応じた多くの科学知識を身につけなければならない」(76頁)という主張は、科学技術の発展は科学知識を次第に不要にしていくという面を伴うので説得的とは思えないと述べている。

つまり、科学技術(の産物)は、発展するにつれ素人の存在を前提にしたものに形態を変えていき、科学技術を包合する社会のシステムもあわせて編成されなおしていく、そしてその社会システムが十全に機能することによって信頼が確保されるのである。(76‐77頁)

 そして著者は科学コミュニケーションは、こうした「信頼」を確立する場面でも大いに活躍できるはずであり、その役割が「信頼」を抜きにしてただ知識を流し込むということに限定されてはならない、と述べてこの節を締めくくっている。
 しかし、一度壊れた信頼関係はどのように再構築されるのであろうかと、私は思う。ここでの信頼関係の再構築や社会システムの再編成というのが、自発的になされていくように書かれているように私には感じられた。
 今年3月に起こった東京電力福島第1原発事故後は、まさにこの信頼関係が崩れたときなのだが、これがどのように再構築されるかのだろうか。誰を、何を信頼したらよいのだろうか問う時、誤った対象を信頼してしまわないだろうか。
 またそもそも、信頼できる対象を見つけることができるだろうか。11月13日福島市飯野町において福島市社会福祉協議会飯野協議会が主催する講演会が「原発事故と健康被害について」開かれ、2人の講演が行われたが、両者の主張は正反対で、質問の時間もあったが聴衆からは全く質問が出ず、司会は「不安と安心が入り乱れていると思いますが、それぞれの頭で考えて放射線対策をしてください」と締めくくったという*1。全く正反対の見解が提示されたままの時、「素人」は途方にくれるだけではないだろうか。
 こうした時に、科学コミュニケーションがどのように活躍してくれるのかを知りたいと私は思う。

*1:(プロメテウスの罠)無主物の責任:7 「先生2人、話は正反対」『朝日新聞』2011年11月30日朝刊3面

【修正あり】「ボドマー・レポート」のボドマー、「公衆の科学理解」について語る。

 「欠如モデル」という言葉は1985年にロイヤル・ソサエティが発行した報告書The Public Understanding of Science*1に端を発するレポートや調査が依拠している「暗黙の仮定」を形容するモデルとして、1991年に出されたいくつかの論文の中で登場したという*2
  このThe public understanging of science報告書は、これをまとめた特別委員会の議長ウォルター・ボドマー(Walter Bodemer)の名に因んでボドマー・レポートと呼ばれる。このボドマーが書いた「公衆の科学理解」についての論文を見つけたので読んでみた*3
 彼はこの報告書の目的について以下のように述べている。

The main eventual thrust of the report, published in 1985, was directed at the need for scientists to learn how to communicate with the general public in all its guises, and to consider it a duty to do so.*4
(1985年に出版されたこの報告書の主要な最終目的は、科学者達があらゆる形態で一般公衆とコミュニケーションをとる方法を学び、そうすることを義務と考える必要性に注意を向けていた。)

 やはり「欠如モデル」と呼ばれるのは不本意のようで、この論文には「欠如モデルとその欠如(The Deficit Model and Its Deficiencies)」という節があり、反論をしている。
特にこの部分、

This has come to be known as the ‘deficit model’, a term apparently coined by John Ziman, who was actually a member of the Royal Society group and signed off on the final version of the report.*5
(これは実際にロイヤル・ソサエティ・グループのメンバーであり、このレポートの最終版に署名したジョン・ザイマンによって明らかにどうも造語されたらしい言葉、「欠如モデル」として知られている。)〔2012年2月23日修正〕

あなただって、この報告書を作成した一員ではないですか、という感じがひしひしと伝わる*6。その他、ウィンやミラーなどの論文やレポートにも反論をしている。
 もちろん、ボドマーは「欠如モデル」批判言うような公衆の関与が必要だというは認める、しかし、

But how can there be the dialogue that this requires, without some understanding of the scientific issues involved? ... Without the ability to explain science in a way that the non-expert can understand and a willingness to get involved in the dialogue, there can be no public engagement.That is the key issue that the 1985 report was addressing.
*7
(しかし、関連する科学的問題のいかなる理解も無しに、これが求めている対話がどのようにありうるだろうか?…非専門家が理解できる方法と対話に関わり合う意志を持って科学を説明する能力なくしては、公衆の関与はありえない。これが1985年のレポートが扱った主要な問題である。)

 そして、この節の最後を次のように締めくくっている。

I have sometimes asked the question in public: ‘Does anyone have an argument against the public understanding of science?’ I have never received a reply!
*8
(私は時々公然とたずねる。「誰か公衆の科学理解に反論していますか?」私は今までその返事を受け取ったことがない!)

 BSE問題などには触れていないので、多少自己弁護的かもしれないが、一つの考えとして紹介してみた。

                                                                                                                                                                                    • -

おまけ
 ボドマーは、レポートから25年経た後の変化として、大学進学率の向上とWebで得られる情報が増えたことを挙げている。

The second major change is the extraordinary, explosive increase in information available on the Web. This is both a blessing and a problem. It enormously increases the opportunity for self-education on the Web but raises the question of which of the millions of sources of information can be trusted.
*9
(第二の主要な変化はウェブ上で利用できる情報の並外れていて、爆発的な増加である。これは祝福すべきことであると同時に問題でもある。それは、ウェブ上での自学のための機会を非常に増加させたが、確認されなければならない情報の膨大な典拠の問題も引き起こしている。)

*1:邦訳:大山雄二訳「公衆に科学を理解してもらうために」I『科学』56(1)、1986年、21-29頁、II、同56(2)、1986年、96‐102頁、III、同56(3)、1986年、171-181頁(筆者未見)。

*2:藤垣裕子「受け取ることのモデル」藤垣裕子・廣野喜幸編『科学コミュニケーション論』東京大学出版会、2008年、109‐124頁、特に110頁。

*3:Walter Bodmer, "Public Understanding of Science: The BA, the Royal Society and COPUS", Notes & Records of the Royal Society,64, 2010, pp. 151-161. ここではオンライン版| Notes and Recordsを参照し、引用にあたっては、PDF版の頁付け(pp. 1-12)を用いる。

*4:Ibid., p. 4.

*5:Ibid., p. 7.

*6:おそらく、J. Ziman, "Public understanding of science", Science, Technology and Human Value 16(1), 1991, pp. 95-105.ただし、同じ雑誌のpp. 111-121に掲載のB. Wynne, " Knoswledges in context"が「欠如モデル」を造語したと言う研究者もいる。両論文とも未見のため、筆者は今判断することができない。また、藤垣前掲論文、120頁註3では、「欠如モデル」という言葉は論文の中に登場する前に、英国内部のワークショップの中では1988年から使われていたという。

*7:Bodmer, op. cit., pp. 8f.

*8:Ibid., p. 9.

*9:Ibid., p. 10.