杉山滋郎「科学コミュニケーション」(『科学』973号、2005年5月、68‐84頁)を読んで思ったこと

 杉山滋郎「科学コミュニケーション」(『科学』973号、2005年5月、68‐84頁)を読んだ。この論考は「欠如モデル」についてかなり紙幅を割いている。その中に「「信頼性の」重要性」という節があり、冒頭で以下のように述べている。

 欠如モデルでは科学知識の欠如を問題視する。その背景には、一般の人々といえども科学にまつわる諸問題について自分の力で、自分の責任で適切に決定を下す―もちろん、必要に応じて専門家など他の人々の助言を受けてもいいのだが、最終的に自分の判断で決定を下す―ことができなければならない、という考えがある。そうであってこそ民主主義の社会が成り立つのだとも言われる。
(同論考、75頁、以下頁番号のみを挙げているのはこの論考からの引用。)

 しかし著者は、現実には他人への「信頼」が重要な役割を果たしているという。自分が毎日安心して床の上を歩くのや水道の水を飲むのは、それらの安全性は自分で確かめたからでなく、「しかるべき専門家や権威ある人(組織)を信頼して、そうしているのである。」(75頁)
 また著者はこうした信頼関係は科学に関わる場面だけで作用しているわけではないと言う。街中で多くの人とすれ違う時、いちいちそれらの人を警戒したり、何をしようとしているかを探ろうとはしない。「ふつうは、それら他人をまったく信頼し、あたかもそれらの人がいないかのようにみなして―このことを社会学者のギデンズなどは、「都会的無関心」(civil inattention)という―安心して街中を歩くのである。」(76頁)この信頼関係が崩れれば、もはやcivil inattentionは発動しない。

 同様に、われわれは科学を信頼している限りcivil inattentionでもって科学に接し、科学から恩恵を受けこそすれ、科学(者)に警戒心を抱いたり科学の中身にまで立ち入ってその正体を知ろうとは思わない。しかし、ひとたび信頼関係が崩れる科学について知りたくなる。科学はどこまで信頼できるのか〔中略〕、物事を決めるにあたって科学の言うことにどれほどの重きを置く必要があるのか、等々の問いを発し、専門家たちとの間で信頼関係の再構築をする。(76頁)

 この時に科学の知識内容や科学研究の方法に関心の目が向くことがあったとしても、最終的な目標はあくまで信頼関係を再構築することで、知識を得ることや研究の方法を知ること自体が目的でないと著者は言う。
 また、著者は欠如モデルの下での、「高度に発展した科学技術に囲まれて生活しているのだから、それに応じた多くの科学知識を身につけなければならない」(76頁)という主張は、科学技術の発展は科学知識を次第に不要にしていくという面を伴うので説得的とは思えないと述べている。

つまり、科学技術(の産物)は、発展するにつれ素人の存在を前提にしたものに形態を変えていき、科学技術を包合する社会のシステムもあわせて編成されなおしていく、そしてその社会システムが十全に機能することによって信頼が確保されるのである。(76‐77頁)

 そして著者は科学コミュニケーションは、こうした「信頼」を確立する場面でも大いに活躍できるはずであり、その役割が「信頼」を抜きにしてただ知識を流し込むということに限定されてはならない、と述べてこの節を締めくくっている。
 しかし、一度壊れた信頼関係はどのように再構築されるのであろうかと、私は思う。ここでの信頼関係の再構築や社会システムの再編成というのが、自発的になされていくように書かれているように私には感じられた。
 今年3月に起こった東京電力福島第1原発事故後は、まさにこの信頼関係が崩れたときなのだが、これがどのように再構築されるかのだろうか。誰を、何を信頼したらよいのだろうか問う時、誤った対象を信頼してしまわないだろうか。
 またそもそも、信頼できる対象を見つけることができるだろうか。11月13日福島市飯野町において福島市社会福祉協議会飯野協議会が主催する講演会が「原発事故と健康被害について」開かれ、2人の講演が行われたが、両者の主張は正反対で、質問の時間もあったが聴衆からは全く質問が出ず、司会は「不安と安心が入り乱れていると思いますが、それぞれの頭で考えて放射線対策をしてください」と締めくくったという*1。全く正反対の見解が提示されたままの時、「素人」は途方にくれるだけではないだろうか。
 こうした時に、科学コミュニケーションがどのように活躍してくれるのかを知りたいと私は思う。

*1:(プロメテウスの罠)無主物の責任:7 「先生2人、話は正反対」『朝日新聞』2011年11月30日朝刊3面