STSの方法論はそもそも「科学vs.社会」を前提としている?

*引用文中の句読点は「、」「。」に統一した。

 STSの政治論的転回関係の文献を読んでいく中で以下の文章を見つけた。

 ここでは、STSの方法論が「科学vs.社会」という概念対を下敷きにしていることだけを確認しておきたい。たとえば藤垣裕子は、STS研究の初学者向けに事例分析の方法論を定式化している(藤垣 2005)。それは年表作成に始まって既存の枠組みへの懐疑に至るまでの五つのステップに分けられているが、注目すべきは、その第三のステップに、専門家と社会の側(裁判所、世論、地域住民)の主張の違い(科学的合理性と社会的合理性のずれ)の把握が設定されている点である。
 こうした把握が不可欠なステップとして含まれるためには、選ばれる科学現象は以下のような条件を満たす必要がある。すなわち、その「科学」現象は「社会」生活に何らかの問題を引き起こしており、その問題に関する主張において専門家と社会の側が議論する空間がある程度は設定されており、そして両者の主張が異なっており、その主張の根拠となる合理性には、科学的合理性と社会的合理性として定式化できるような差異がある、といった条件である*1

 上記の文章に引用されている(藤垣 2005)の事例分析の方法のステップを以下に引用する。

① 年表をつくってみよう。
② 利害関係者を書き出してみよう。
③ 各利害関係者の違いをまとめてみよう。
 ③-1 専門家の主張をまとめてみよう(専門誌ではそのように扱われているか)。
     専門家内の主張のずれをみてみよう(合意があるか。合意がまでないのか)。
 ③-2 専門家の主張と社会の側(裁判所、世論、地域住民)の主張の違いをまとめてみよう(科学的合理性と社会的合理性のずれはどこにあるか)。
④ 論点を可視化してみよう。
⑤ 問題のフレーミングを疑ってみよう。既存の枠組みを疑ってみよう*2

 また、小林傳司氏はSTS研究の領域に属する問題を扱った論集の冒頭で「社会的合理性」の「科学的合理性」への優越を謳っている。

 われわれの基本的視点は、社会における科学技術のあり方を検討する際に優先されるべきは、「科学的合理性」ではなく「社会的合理性」だということである。このことはもちろん、「科学的合理性」の無効を宣言するものではない。ただ、「科学的合理性」は「社会的合理性」の統制のもとで、その有効性と限界が測定され、評価されなければならないのである。そして、この両者の関係こそが、本書で繰り返し語られる「公共圏」あるいは「公共空間」において討議されるべき中心課題なのである*3

 STSの研究対象として選ばれた「科学」現象において「科学的合理性と社会的合理性のずれ」が見出され、しかも検討の際に優先されるべきは「科学的合理性」ではなく「社会的合理正統言うことになれば、必然的に「科学」現象が否定的な評価を受けることにならないだろうか?場合によっては徒に「科学」と「社会」の間の対立を煽ることになりかねないのではないか*4

*1:中村和生「科学社会学における「社会」概念の変遷」酒井泰北斗ほか編『概念分析の社会学 : 社会的経験と人間の科学』ナカニシヤ出版、2009年、233−260頁、特に254頁。

*2:藤垣裕子「解題: Advanced-Studiesのために」藤垣編『科学技術社会学の技法』東京大学出版会、2005年、221-235頁、特に223-224頁。

*3:小林傳司「はじめに」小林傳司『公共のための科学技術』玉川大学出版部、2002年、3-5頁、特に3-4頁。

*4:おそらく、「第三の波」の議論などはそういうことに対する批判ではないかと私は思うのだけれど、科学社会学者松本三和夫氏はこの議論の「広範かつ持続的な反響にもかかわらず日本での認知度が低い。」と述べている[松本三和夫「「第三の波」をこえて:科学と社会の微妙な界面」『UP』39(7)、2010、8-13頁、特に9頁]。