グラウコンとマキァベッリ

 ジョナサン・ハイト(高橋洋訳)『社会はなぜ左と右にわかれるのか : 対立を超えるための道徳心理学』(紀伊國屋書店、2014年)を読んだ。この本の中で「グラウコン主義」という用語が繰り返し用いられている。これはプラトンの『国家』第2章(357A-369B)で、その登場人物であるグラウコン(とアデイマントス、両者ともプラトンの兄)がソクラテスに提起した問題*1に基づいている。簡単に言うと「捕まった場合のこと(とりわけ自分の評判が傷つくこと)を恐れるがゆえに、人は有徳になるにすぎない」(ハイト前掲書、130頁)という意味で、「自分の評判に傷がつく可能性がなければ、人はひどい態度をとることが多いという、私の見解と一致する考えをはっきりと述べているので、彼【グラウコン―引用者】を代弁者として起用した」(同書、549頁註3)とのことだ。
 ハイトは別の個所でこう述べている。

本書を通じて「グラウコン主義」の代わりに「マキャベリ主義」という用語を使うこともできた。ただ「マキャベリ主義」と言うと、暗い側面が誇張され、トリックを駆使しながら人民を支配する統治者のイメージを喚起する。道徳的な生き方とは、権力や支配より、協力や協調に関わるものだと私は考える。道徳的な思考における不誠実や偽善は、他人をして、自分に好意を抱かせ、協力させることを目的とする。よってグラウコン主義という言葉を用いた。
(同書、584-583頁[逆ノンブル、14-15頁]註10)

 ハイトの念頭にあったのは『君主論』18章「君主たるもの、どう信義を守るべきか」の以下の記述だろうか。

 要するに、君主は前述のよい気質を、何から何まで現実にそなえている必要はない。しかし、そなえているように見せることが大切である。いや大胆にこう言ってしまおう。こうしたりっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。そなえているように思わせること、それが有益なのだ、と。
(池田廉訳「君主論」『マキァヴェッリ全集』1、筑摩書房、1998年、59頁)

 それはそれとして、通俗的な「マキャベリ主義」イメージが「トリックを駆使しながら人民を支配する統治者のイメージを喚起する」ということの一例ではあるだろう。

*1:藤沢令夫訳『国家』、岩波文庫、1979年、上102-131頁。この問題についてはさしあたり以下の文献を参照。中澤務「グラウコンとアデイマントスの問い : 『国家』第II巻における"Why be moral?"の問題」『関西大学哲学』26号、2008年、203-222頁(http://hdl.handle.net/10112/984)。