【追記あり】マキァヴェッリ『ディスコルシ』におけるタキトゥス『年代記』からの引用について(1)

 ルネサンスフィレンツェの官吏、政治思想家ニッコロ・マキァヴェッリ(1469-1527)は『君主論』の著者として有名であるが、『ティトゥス・リウィウスの初篇十章にもとづく論考』Dicorsi sopra la prima deca di Tito Livio(略称『ディスコルシ』)という著作も著している。その2巻26章末尾に次のような文章がある。

 すでに説明したように、ローマ人は、他人をこきおろしたり、人の恥をあざけるようなことは、きわめて有害なことと考えていた。なぜなら、本心からの場合はもちろん、たとえ冗談で言うときでも、これほど人の心を傷つけ、怒りに燃え狂わせるものはないからである。だからこそ、いにしえの人の言葉にあるとおり、「実際、むきだしの冗談というものは、それが真実からかけ離れてしまっているときには、それ自身とげとげしい後味を残す」ものなのである*1
〔太字、引用者〕

 「ティトゥス・リウィウス」をタイトルに含んでいるが、ここでの「いにしえの人」とはリウィウス(59 BC-AD 17)ではなく、註によると 、コルネリウスタキトゥス(200-276)のことで、『年代記』15巻68章からの引用である。

以下「年代記」当該箇所からの引用。

 それはさておき、ネロがウェスティヌスを恨むようになったいきさつは、遠く二人の親密な交際に根ざしている。つまり、その間にウェスティヌスは、元首の小胆を底まで見抜いて軽蔑するようになる。ネロのほうは、たびたび刺のある冗談でもって翻弄されているうち、友の過激な気性を恐れるようになった。じっさい冗談が、申し分なく真実を根拠としているとき、あとあとまで苦い思いを残すものである*2
〔太字、引用者〕

 二つの文章の原文は以下のとおりである。
『ディスコルシ』はイタリア語(トスカナ方言)で書かれているのだが、当該部分はラテン語である。

Nam facetiae asperae, quando nimium ex vero traxere, acrem sui memoriam relinquunt.*3

タキトゥスの該当箇所

saepe asperis facetiis inlusus, quae ubi multum ex vero traxere, acrem sui memoriam relinquunt*4.

 さてこの両文章の下線部を見比べると、前者の「それが真実からかけ離れてしまっているときには、」と後者の「申し分なく真実を根拠としているとき、」では意味が正反対になってしまっているのがわかる。『ディスコルシ』の当該文章を読んだ時、私はとても含蓄のある文章だと思った。それに対して『年代記』の文は陳腐なものに思われる。この違いはどうして生まれたのか。最初、私はマキァヴェッリは記憶に頼って引用したので、タキトゥスの文章とは意味が違ってしまったのだろうと思った。
 そこで他の現代欧語訳と比べてみた*5
(以下、太字による強調および引用下段の和訳は全て引用者による。)

1. 英訳(1)

"for the biting jest which flavours too much of truth, leaves always behind it a rankling memory."*6
過剰なる真実に味付けする刺すような冗談は常にその後にわだかまりの記憶を残すからである。」

2. 英訳(2)

‘For smart sayings, when they border on the truth, leave a bitter taste behind them.’*7
「気の利いた言い回しは、それらが真実によく似ている時、彼らに苦い味を残すからである。」

3. 独訳

Denn beißende Scherze, die zuviel Wahres enthalten, lassen bittere Erinnerung zurück*8.
なぜなら刺すような冗談は、それが過剰な真実を含んでいると、苦い記憶を後に残すからである。

4. 仏訳

«Car les railleries mordantes, quand elles sont par trop fondées, laissent un âcres souvenir.»*9
「なぜなら辛辣な冗談は、それが十分な根拠がある時、苦く記憶に残るからである。」

5. 現代イタリア語訳(校訂版の当該箇所についていた註)

‘infatti gli aspri motteggio, qualora abbiano in sé troppo del vero, lasciano un pungente ricordo’*10.
「実に辛辣な揶揄の中に、過剰な真実がある場合、刺すような記憶を残すものである。」

 これらの現代欧語訳をみると、いずれも『年代記』の意味に忠実で、邦語訳とは異なっていることがわかる。何故邦訳とそれ以外でこんなに意味が違ってしまったのだろうか。
 再び原文を見てみよう。acrem以下は全く同じで、前半部分に異同がある。マキァヴェッリは、冒頭にNam(なぜなら)という語をつけて、前後の文をつなげている。一番問題となるのは、以下の部分である。

・『ディスコルシ』
quando nimium ex vero traxere
・『年代記
quae ubi multum ex vero traxere

 nimium(過剰な)とmultum(非常に)では対して意味は変わらない。またquandoは古典的すぎるubiを改めただけだという*11
 そこで動詞に注目してみる。traxereはtrahoの完了形不定詞でto draw, dragという意味である。『年代記』では「真実から引き出す」という意味で使われているが、語の意味的には「真実からは引き離す」と訳せないこともないのだろうか。私の乏しいラテン語の知識では、判断がつかない。
 邦訳は「だからこそ、いにしえの人の言葉にあるとおり、」など、原文や欧語訳にはない部分を補っている。欧現代語訳はタキトゥスの意味をそのまま取り、邦語訳はマキァヴェッリの文脈から訳したのだろうか。しかし、独自の解釈を入れるなら註に詳説してほしいと思う。この訳には「タキトゥス年代記』(XV,68)としか記述がない*12
 ただ一つ考えられるのは以下のことである。『マキァヴェッリ全集』版の『ディスコルシ』は中央公論社の『世界の名著』シリーズの『マキアヴェリ』(中央公論社, 1966年)所収「政略論」の改訳であるが、そのテキストは、ベルテリ版(Sergio Bertelli, Milano, Feltrinelli, 1960)を用いたという(同書、40頁)。この校訂本の註に「真実からかけ離れてしまっているときには」という解釈があったかもしれない。それならば、今回挙げた欧語訳は現代イタリア語訳を除いて古いのでその情報が反映されないことになる。(ただし、今回用いた校訂本の註にはそんな記述はなかった。)近くベルテリ版を確認しようと思う。

*次回は、『ディスコルシ』の邦訳の歴史について検討するつもりです。
(2011年8月6日タイトル修正)

【2011年8月23日追記】
 ベルテリ版を確認したところ、この校訂本の註に「真実からかけ離れてしまっているときには」という解釈があったことがわかりました。詳細は8月7日の記事の追記をご参照ください。

*1:永井三明訳『ディスコルシ』筑摩書房、1999年、(『マキァヴェッリ全集』2巻)、263頁下段

*2:国原吉之助訳『年代記岩波文庫、下、295頁

*3:Francesco Bausi ed., Discorsi sopra la prima deca di Tito Livio, Roma : Salerno , 2001. (Edizione nazionale delle opere di Niccoló Machiavelli, Sezione 1 . Opere politiche, v. 2), p. 485

*4:C.D. Fisher ed., Cornelii Taciti Annalium : ab excessu Divi Augusti libri, Oxonii : E Typographeo Clarendoniano , 1906. (Scriptorum classicorum bibliotheca Oxoniensis), unpaged.

*5:Web上で閲覧できた一つを除いて、私がアクセスしやすい図書館にあったものを使ったので、網羅的に収集してはいないし、必ずしもそれぞれの言語で代表的な訳であるわけでもない。

*6:Ninian Hill Thomson tran., Discourses on the First Decade of Titus Livius by Niccolò Machiavelli, originally published: London : K. Paul, Trench , 1883.

*7:Leslie J. Walker tran., The discourses of Niccolò Machiavelli, London ; Boston : Routledge and Paul , 1975, vol. 1, p. 438. Originally published in 1950.

*8:F.v. Oppeln-Bronikowski übersetzt, Discorsi : politische Betrachtungen über die alte und die italienische Geschichte, Berlin : R. Hobbing , 1922. (Klassiker der Politik / herausgegeben von Friedrich Meinecke und Hermann Oncken ; Bd. 2), S,193.

*9:Edmond Barincou ed., Œuvres complètes, Paris : Gallimard , 1952.(Bibliothèque de la Pléiade ; 92), p.1516

*10:前掲Francesco Bausi ed., p. 485, n. 34.

*11:ibid.

*12:永井訳、431頁、註3