二人のイサキオスの混同? 江戸時代後期の儒学者に叙述されたビザンツ帝国

 杉下元明「幕末維新期の知識人にうたわれたローマ帝国」(同著『比較文学としての江戸文学』汲古書院、2023年、277-297頁。初出:『日本漢文学研究』8号、2013年、19-40頁。)を読んで、江戸時代後期の儒学者斎藤竹堂(1815-1852)が漢文で著した『蕃史』というを西洋の歴史についての著作にビザンツ帝国の歴史についての記述があるのを知った。

千百八十年(高倉天皇治承四年に当たる)庵多魯吉斯アントロキス、母后制里那加セリナカを執り罪を誣し之を海に溺れしむ。(略)帝族に伊佐粛斯イサシウス有り。加列児臥羅多カレルクロトの庶孫なり。其の才有るを以ての故、魯吉斯は之を殺さんと欲す。粛斯、海浜に避くること久しくして、諸国愈々乱るるを見、遂に義兵を倡へ、際波里斯セホリスを取って、之に拠り、檄を伝へ、魯吉斯弑逆の罪を鳴らす。(前掲論文、286頁、註記号省略)

 「庵多魯吉斯」即ちアンドロニコスは、論文著者が註で指摘しているように(前掲論文、297頁)、皇帝アレクシオス二世の母を殺害し、やがてアレクシオス二世も殺害して帝位を簒奪するのだが、マリアの殺害は1182年である。その名はマリアあるいはマリーで、「制里那加」がどこからきたのかわからない。「伊佐粛斯」即ちイサキオスの先祖「加列児臥羅多」も普通に聞くとフランク人の名前みたいでよくわからない。イサキオス・アンゲロスはアンドロニコスに命を狙われた後、コンスタンティノープルで蜂起しており、「海浜」に逃れていない。上記のように史実とかなり異なる部分も多いのでが、「際波里斯」がもしキプロスを指すなら、「伊佐粛斯」はキプロスで自立したイサキオス・コムネノスを指すという可能性はないか?

 ジョナサン・ハリス著(井上浩一訳)『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』(白水社、2018年)にアンドロニコス治世末期の両イサキオスについてのまとまった個所があったので引用する(同書272頁)。

 コンスタンティノープルの外に出ると、アンドロニコスの恐怖政治は属州の分離主義を加速し、さらに不幸な結果となった。一一八四年に、アンドロニコスの近臣で元キリキア長官のイサキオス・コムネノスが、軍を率いて小アジアからキプロス島へ渡った。島に入ったイサキオスは、自分を島の長官に任命するという偽の皇帝書簡を提示した。ひとたび支配権を握るや、彼は本心を露わにし、皇帝と名乗った。イサキオスの最終的な目標はコンスタティノープルであったが、結果的に、この反乱はキプロス島を帝国から分離させることになる。イサキオスのキプロス独立政権は一一九一年まで続いただけで、この年、聖地の十字軍に合流する途上のイングランドリチャード一世獅子心王の侵入を受け、征服されてしまった。キプロス島は二度とビザンツ支配下に戻らなかった。
 アンドロニコスの恐怖政治は一一八五年九月にあっけなく幕切れとなった。取り巻きの何人かが、イサキオス・アンゲロスという金持ちの若い貴族を謀反の疑いで逮捕するため、その屋敷に向かった。逮捕されれば間違いなく死が持っていると悟ったアンゲロスは、馬上に打って出ると、やって来た連中のひとりを殺し、町を駆け抜けて聖ソフィア教会に向かった。聖ソフィア教会で皇帝を宣言したところ、アンドロニコスがアレクシオス二世を廃位した時には動かなかったコンスタンティノープルの群衆が、今回はイサキオスの呼びかけに応じた。事態の急変を知ってアンドロニコスは都を脱出しようとしたが、つかまって連れ戻された。皇帝は激昂した民衆によって競馬場でなぶりものにされ、壮絶な最期を遂げた。

 アンドロニコスに殺されそうになって皇帝を名乗ることにしたイサキオス・アンゲロスとキプロスに拠って皇帝を名乗ったイサキオス・コムネノスの両者を、竹堂か彼が参考にした書籍(論文の著者によればおそらく漢籍)のいずれかが混同したのではないだろうか。