冗談について西洋古典より三つの引用

アリストテレス『弁論術』2巻第4章1381a30-40(戸塚七郎訳、岩波文庫、1992年、180頁)

 また、上手に冗談を飛ばすことも、冗談をうまく受け止めることもできる人々も、友人である。なぜなら、これらの人々は、相手がからかうのを笑って聞き流すこともできるし、即妙に切り返しもするので、いずれも、共に楽しむという、隣人と同じ目標にひた進むことになるからである。

タキトゥス年代記』第15巻68節(国原吉之助訳、岩波文庫、下、1981年、295頁)

 それはさておき、ネロがウェスティヌスを恨むようになったいきさつは、遠く二人の親密な交際に根ざしている。つまり、その間にウェスティヌスは、元首の小胆を底まで見抜いて軽蔑するようになる。ネロのほうは、たびたび刺のある冗談でもって翻弄されているうち、友の過激な気性を恐れるようになった。じっさい冗談が、申し分なく真実を根拠としているとき、あとあとまで苦い思いを残すものである。

マキァヴェッリ『ディスコルシ』(永井三明訳『マキァヴェッリ全集』2巻、筑摩書房、1999年、263頁)
(「いにしえの人の言葉」は前掲と同じはずだが意味がほぼ逆になっている。)

 すでに説明したように、ローマ人は、他人をこきおろしたり、人の恥をあざけるようなことは、きわめて有害なことと考えていた。なぜなら、本心からの場合はもちろん、たとえ冗談で言うときでも、これほど人の心を傷つけ、怒りに燃え狂わせるものはないからである。だからこそ、いにしえの人の言葉にあるとおり、「実際、むきだしの冗談というものは、それが真実からかけ離れてしまっているときには、それ自身とげとげしい後味を残す」ものなのである。

 相手が上手く切り返せない「冗談」は将来に禍根を残すことになる。