【追記あり】マキァヴェッリ『ディスコルシ』におけるタキトゥス『年代記』からの引用について(2)

 *前回の記事のまとめ*
 マキァヴェッリ『ディスコルシ』2巻26章の末尾に"Nam facetiae asprae, quando nimium ex vero traxere, acrem sui memoriam relinquunt."というラテン語の一文があり、これはタキトゥス年代記』15巻68章からの「引用」である。最新の邦訳『マキァヴェッリ全集』版*1はこれを「実際、むきだしの冗談というものは、それが真実からかけ離れてしまっているときには、それ自身とげとげしい後味を残す」訳している。しかし、『年代記』の該当箇所は「じっさい冗談が、申し分なく真実を根拠としているとき、あとあとまで苦い思いを残すものである」である。
 「真実からかけ離れてしまっている」冗談と「申し分なく真実を根拠としている」冗談では、意味が正反対である。現代欧語訳を確認したところ、それらは全て後者の「申し分なく真実を根拠としている」という方の解釈をしていることがわかった。

 今回は該当箇所の邦訳について比較してみる*2

1. 林董訳『羅馬史論』博文館、1906年
 外交官・政治家である林董(はやし ただす、1850-1913)が、英国駐剳特命全権公使(1900−1905)、同大使(1905-1906)としてロンドンに在勤中に英訳から邦訳したものである。

凡そ嘲笑罵詈の言は戯譃に出るも眞意に發するも、人の憤怒を招ぐ〔ママ〕こと之より大なるものはあらず。故に「タシタス」(Tacitus)は曰く、辛辣の諧譃にして然も一分の眞を抱合するものは怨恨を後來に残すこと長し〔原文傍点〕と*3

 参考にした英訳というのは年代的に前回挙げた英訳(1)ではないかと思われるが詳細は不明である。「一分の眞」という言葉の「一分」だが、「少々」や「多少」と解釈するよりも、「一定」と解釈したほうが文脈に合うような気がする。林訳は、英訳を参照しているので当たり前だが、「冗談が、申し分なく真実を根拠としているとき、」という現代欧語訳と同じ解釈をとっていると言えるだろう。

2. 多賀喜彦訳『ローマ史論』上下、創元社、1940年 (『マキァヴェルリ全集』第2−3巻)(=大岩誠訳『ローマ史論』1−3巻、岩波文庫、1949−1950年、大岩誠は多賀喜彦のペンネームだという)
 底本は1798年ジェノヴァマキァヴェッリ全集5−6巻所収のI Tre Libri de' Discorsi sopra la prima Deca di Tito-Livioを用い、J・V・ペリエの仏訳を参照したという*4

既に申し述べたやうに、ひとを馬鹿にするのは洵〔まこと―引用者〕に危険なこととローマ人は考へ、従つて辱めを受けた時は非常に苦しむのだつた。それといふのも、世の中に何が一ばん癪に障り、何が一ばん心の底から怒りを感じさせると言つても、Nam facetiae asprae, quando nimium ex vero traxere, acrem sui memoriam relinquunt.(悪意があらうと冗談であらうと、誠しやかな口吻で非難されるほど聞くものの心に厭な後味を残すものはない)からである*5

 丸括弧内がラテン語部分に相当するはずだが、「悪意があらうと冗談であらうと、」は本来ラテン語部分の前に置かれていた文章である。何故か引用部分に入れられてしまっているし、「誠しやかな口吻」と言うのも何のことかわからない。おまけにこれがタキトゥスからの引用であると言うことも一切明示されていない。今回の私の考察に全く役に立たなかった。

3. 永井三明訳「政略論」、会田雄次編『マキアヴェリ中央公論社、1966年 (『世界の名著』16)所収(後に『中公バックス世界の名著』21として再刊)

 すでに説明しておいたように、ローマ人は、他人をこきおろしたり、人の恥をあざけるようなことは、きわめて有害なことと考えていた。なぜなら、本心から言うばあいはもちろん、たとえ冗談で言うときでも、これほど人の心を傷つけ、怒りに燃え狂わせるものは無いからである。だからこそ、いにしえの人のことばにあるとおり、「野卑な冗談というものは、それが真実からまったくかけはなれてしまっているときにはなおさら、とげとげしい後味を残す」ものなのである。

 前回冒頭で掲げた『ディスコルシ』はこの訳の改訳版である。

 すでに説明したように、ローマ人は、他人をこきおろしたり、人の恥をあざけるようなことは、きわめて有害なことと考えていた。なぜなら、本心からの場合はもちろん、たとえ冗談で言うときでも、これほど人の心を傷つけ、怒りに燃え狂わせるものはないからである。だからこそ、いにしえの人の言葉にあるとおり、「実際、むきだしの冗談というものは、それが真実からかけ離れてしまっているときには、それ自身とげとげしい後味を残す」ものなのである*6

 両者にはいくつか異同があるが、今回の考察の対象であるラテン語部分では「真実からかけ離れてしまっている」という解釈に大きな違いは無い。永井訳はこの1966年から、現在まで一貫して同じ解釈をしていることになる*7管見の限りこの解釈を採用しているのは永井一人だけのようである*8
 余談だが、ラテン語部分の直前に原文に無い「だからこそ、いにしえの人の言葉にあるとおり、」と付け加えているのが気になる。どうせ付け加えるなら、「いにしえの人」などとせず、林訳のように「タキトゥス」としてしまえばいいのにと思う。

【2011年8月23日追記】
 永井訳の底本、ベルテリ版を確認したところ、ラテン語箇所に註があり、以下のようなイタリア語訳がついていた。

"Infatti le crude facezie, quando si allontanano da vero, lasciano un'acre memoria di sé.*9"
実際露骨な冗談は、あまりにも真実から遠ざかっている時、それ自体についての辛辣な記憶を残すものである。
〔太字、引用者〕

同註はまた、この引用がマキァヴェッリによって変更されているとも書いている*10
つまりヴェルテリは、ラテン語部分をタキトゥスの引用のままではなく、『ディスコルシ』の文脈に合うように解釈したようである。
 拙ブログ7月31日と今回の記事において、「真実からかけ離れてしまっている」という解釈が永井氏独自のものであるかのように書いたのは誤りであった。また、塩野氏の解釈が永井氏に追随した結果であるとも言い切れなくなった。
 永井氏、塩野氏の解釈に不備があったととられるようなことがあったら、それは私の責任であり、両者並びに読者にお詫びいたします。

【2011年8月28日追記】
 もう一つ別の校訂版について当該箇所の註を確認できた。

«Giacché le crude facezie, quando s'oppongono troppo al vero, lasciano acre memoria di sé.»*11
露骨な冗談は、全く真実に反対している時、それ自体について辛辣な記憶を残すものである。
〔太字、引用者〕

 これまた、ベルテリ版に近い解釈といえるだろう。
 結局、ベルテリ版等を用いた現代欧語訳があるかどうかを確認する必要がある。これを今後の課題としたい。

*1:永井三明訳『ディスコルシ』筑摩書房、1999年、(『マキァヴェッリ全集』2巻)。

*2:『ディスコルシ』の邦訳の歴史については、大久保歩「マキアヴェッリに関する論文と日本語訳されたマキアヴェッリの著作 (書誌作成新人集)」『文献探索』 2004, 385-396頁、特に394−395頁参照。

*3:林訳、365頁。句読点については引用者が手を加えた。

*4:大岩訳、3巻、257頁。

*5:多賀訳、下巻、101-102頁=大岩訳、2巻、164−165頁。

*6:永井三明訳『ディスコルシ』筑摩書房、1999年、(『マキァヴェッリ全集』2巻)、263頁下段。

*7:全集版は2011年3月に『ディスコルシ : 「ローマ史」論』としてちくま学芸文庫で再刊されたが、当該部分を確認したところ、異同は無かった。

*8:塩野七生マキァヴェッリ語録』新潮文庫、1992年(原著:新潮社、1988年)234頁には「どぎつい冗談とは、それが真実からかけ離れている場合はなおさらのこと、とげとげしい後味を残さないではすまないものである」とあるが、これは永井訳を参照したものであろう

*9:Niccolò Machiavelli, Sergio Bertelli ed., Il principe e Discorsi sopra la prima deca di Tito Libio, Milano : Feltrinelli, 1960. (Universale economica Feltrinelli ; Biblioteca di classici italiani ; 3 . Opere / Niccolò Machavelli ; 1)p. 360, n. 6.

*10:La cit. è stata modificata dal M[achiavelli].〔角括弧内は引用者の補い〕

*11:Niccolò Machiavelli, Mario Bonfantini ed., Opere, Milano: Ricciardi, 1954. (La letteratura italiana : storia e testi ; v. 29), p. 293, n. 1