アメリカ合衆国とアドリア海の2つの共和国

 先日、バリシァ・クレキッチ著、田中一生訳『中世都市ドゥブロヴニク : アドリア海の東西交易』(彩流社、1990年)を読んだ。この本は原題Dubrovnik in the 14th and 15th centuries : a city between East and West (University of Oklahoma Press, c1972)の示すとおり、14、5世紀のドゥブロヴニク(ラグーザ)共和国の政治・経済・文化などについて叙述されているものだが、「結語」において、この共和国の16世紀から滅亡までについて概観がなされている。
 その中にアメリカ合衆国にまつわるエピソードがある。独立戦争後の1782-1783年、パリにおいて和平交渉を行っていたアメリカ合衆国の代表は、ヨーロッパ諸国と次々と友好通商条約を結んでいったが、ドゥブロヴニク(ラグーザ)共和国ともそれを望んだらしい。同共和国パリ駐在大使フランチェスコ・ファヴィはそれを本国政府に熱心に勧めた。

 興味ぶかいことに、ファヴィはアメリカの将来について予言者のような見通しをもっていて、自国の政府に対して長々とアメリカ革命につき、合衆国との貿易に関して、またそれと関係した事柄について述べている。一七八三年七月ファヴィは特に次のようなことを述べていた。「最も聡明な政治家たちが行なった、アメリカはひとたび自由になればヨーロッパを併呑するだろうという予言は、実現しはじめています」。ヨーロッパから合衆国へ向けて大量の亡命者が流出していることに触れて、ファヴイはこう付け加えている。「このことは、技術や農業にさして好意をもたぬ政府の諸公の蒙を啓くに違いありません。もし彼らがより良き制度を採用しないならば、彼らの国々は日ならずして人口が激減するでしょう。アメリカはその成長を、ヨーロッパの悪しき政府に大いに助けられるということにもなりかねません。……いずれにしましても、あの国は地球上で最も繁栄する一国となるようであります」。後に、すなわち一七八三年九月の書簡で、ファヴィはこの点を再び強調している。「現在のところ、アメリカはさして富んでいません。だが将来、彼らの国富は国家の繁栄にともなって増大することは、疑いを容れぬところであります」。
(クレキッチ前掲書、168頁、太字による強調は引用者)

 これを読んで、私は塩野七生のエッセイ「ベンジャミン・フランクリンの手紙」(『イタリア異聞』新潮文庫、1994年[単行本は1982年刊]、201−207頁)を思い出した。これは、和平交渉中のアメリカ代表団が、ヴェネツィア共和国との友好通商条約を結びたいとの意向をヴェネツィアのパリ駐在大使ダニエル・ドルフィンに書簡で伝えたというエピソードについてのものである。ドルフィンはこの書簡を本国に送ると同時に次のような意見を付け加えたという。「アメリカ合衆国は、将来、世界で最も怖(おそ)るべき力を持つ国家になるでありましょう」(塩野前掲書、204頁、丸括弧内は原文ルビ、太字による強調は引用者)
 この両国のアメリカに対する姿勢は、似た経過をたどる。ドゥブロヴニクヴェネツィアの本国政府は、大使に他のヨーロッパ諸国の動向を調べさせたが、結局、大使の勧めにもかかわらず、イギリスに配慮してアメリカとの通商友好条約を結ばなかった。

 ヴェネツィア共和国はこの14年後、ドゥブロヴニク共和国は25年後に、どちらもナポレオンによって滅ぼされる。そして、ナポレオン失脚後、両市ともオーストリア支配下に入る。

「最初の近代人」神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世

 塩野七生神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位1220-1250)の評伝を近く出版する*1
 彼女は以前にも『サイレント・マイノリティ』(新潮文庫、1993年;単行本: 新潮社、1985年)所収の「イェルサレム問題」で、彼の「十字軍」について書いている。
 フリードリヒ2世については、佐々木毅プラトンの呪縛』(講談社学術文庫、2000年;単行本: 講談社、1998年)の序章に、とても興味深い記述があったことを思い出した。これはイギリスの教育学雑誌Journal of Educationに1944年11月から2回にわたって掲載されたOtto Neurath and J. A. Lauwerys"Nazi text-books and the future" という論文について書かれているもので、以下その部分を引用する。

 第二回目の論文においてこの二人は、一見したところ「中立」的に見える教科書の記述についての検討を続けていく。スタウフェン朝の皇帝フリードリヒ二世の例がまず取り上げられる。エルンスト・カントロヴィッツの作品やブルクハルトによって「最初の近代的支配者」と見なされているが、この人物の具体的な行為は残虐で非寛容的である。それがあたかも「寛容な、啓蒙され、前向きな」人物であるかのように叙述されている。これでは将来、ヒトラーについても同じような記述がなされるのを覚悟しなければならないようなものではないか、と二人は慨嘆する。問題なのはこうした強力で無慈悲な暴君の行為がこれらの教科書執筆者たちによって、取り繕われ、実際には天才の行為として賞賛されていることだというのである*2

 フリードリヒ2世には、人体実験の逸話が残っているように、「怪物」的なところがあった。私の記憶が正しければ、モンタネッリらが書いた『ルネサンスの歴史』*3は、フリードリヒの死から始まっていたが、彼の「怪物」性についても描写されていたはずである。
 塩野の著作ではそのあたりのところがどのように描写されるのであろうか?

*1:『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』上・下、新潮社、2013年12月18日刊行予定http://www.shinchosha.co.jp/blog/special/309637.html

*2:佐々木毅プラトンの呪縛』講談社学術文庫、2000年、38−39頁

*3:モンタネッリ, ジェルヴァーゾ著 ; 藤沢道郎訳『ルネサンスの歴史』上・下、中央公論社、1981−1982年;中公文庫、1985年

G・K・チェスタトン「秘密の庭」における「カトー」

*G・K・チェスタトン「秘密の庭」(『ブラウン神父の無心(童心)』所収)の内容の一部に触れています。

 昨年12月にG・K・チェスタトンのブラウン神父物の第一短編集The Innocence of Father Brownの新訳が、ちくま文庫で出版された(南條竹則/坂本あおい訳『ブラウン神父の無心』ちくま文庫、2012年、以下ちくま文庫版と略す)。それに所収された2番目の短編「秘密の庭」The Secret Gardenの最後の一文は以下のようになっている。

そして自殺者の何も見えぬ顔には、カトーの誇りにも勝るものが浮かんでいた。(ちくま文庫版、74頁)

ここで「カトー」に以下のような訳註がついている。

前二三四年-前一四九年。ローマの将軍。カルタゴ殲滅に執念を燃やした。(同上)


また、先行訳の創元推理文庫版(中村保男訳『ブラウン神父の童心』、1982年)では以下のようになっていた。

この目を閉じた自殺者の顔には、カルタゴ必滅をさけんだ勇将カトーの誇りがにじみ出ていた。(創元推理文庫版、75頁)

 この部分の原文は以下の通り。

and on the blind face of the suicide was more than the pride of Cato.*1

 両訳ともこの「カトー」を大カトー*2と解釈している。しかし、私には大カトーよりも彼の曾孫、小カトー*3のことを指しているのではないかと思われる。自決という最期において、「秘密の庭」の犯人と小カトーが一致するだけでなく、その「確信犯」ぶりについても両者が重なるように思われるからだ。
 このような指摘はすでに先行文献によってなされているかもしれない。時間がある時に探してみよう。

 余談だが、青空文庫直木三十五によるこの話の翻訳がある*4。しかし、この訳では「カトー云々」の部分が端折られてしまっていた。

[2013年4月3日追記]
 The Innocence of Father Brown新潮文庫版の翻訳は『ブラウン神父の純智』というタイトルで出版されている(橋本福夫訳、新潮文庫、1959年、以下新潮文庫版)。これはThe Secret Gardenが「密閉された庭」と訳され、該当箇所は以下のとおりである。

そして、この自殺者の眼を閉じた顔には、カトーの誇り以上のものが浮かんでいた。(新潮文庫版、74頁)

 この「カトー」の部分に以下の割註がついている。

(註・自殺したローマの高潔な政治家ウティカのカトーであろうか?)

 「ウティカのカトー」は、小カトーのこと。小カトーと解釈する翻訳は既に存在していたことが確認された。

「28歳研究者 原子力を問う」(『朝日新聞』2012年8月14日夕刊3面)

 昨日の朝日新聞夕刊の文化面に、『「フクシマ」論 : 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社, 2011年)の著者開沼博と『核エネルギー言説の戦後史1945-1960 : 「被爆の記憶」と「原子力の夢」』(人文書院, 2012年)の著者の山本昭宏の「対談」記事が載っていた。ともに28歳の研究者ということで「28歳の研究者 原子力を問う」というタイトルだった*1
 その最後の部分は以下のようになっている。

 ――今後のエネルギー政策を国が明確に示せないことをどう見ますか
 開沼 経済成長で社会をよくするという目標を失って「政治の言葉」が無効化し、せり出してきたのが「市場の言葉」。経営者的な視点で不合理やむだを批判する言葉が非常に力を持ってきている。ここ10年ほど、その市場の言葉が原子力を礼賛してきたし、今も原子力を維持しようとしています。
 山本 「市場の言葉」を私は「消費者的メンタリティー」ととらえています。生まれてから一度も経済成長を経験していない今の学生たちは、これ以上は生活レベルを下げたくない、あわよくば、少しでも得したいと考えている。そんな「消費者的な連帯」が保守的な方向に向かっています。
 開沼 日本は成長という「夢」を見てきて、そこから覚めたくない、とだだをこねているうちに今のようになってしまった。では、夢から覚めたら不幸かというと、「それなりにいいよね」と若者は感じている。それをニヒリズムと批判する人たちには、逆に「夢から覚めましょうよ」と言いたいですね。

〔太字強調引用者〕

 山本は「学生」が現状以上の生活レベルを望んで保守化していると言っているのに対し、開沼は「若者」が、経済成長の「夢」から覚めても「それなりにいいよね」と感じていると述べている。開沼の言う「若者」がどの程度の範囲を示すのかわからないが、普通に考えれば、山本の言う「学生」も入る概念であるだろう。「対談」の他の部分はともかくこの部分では話が噛み合っていない。これで終わりにされてしまうと、読んでいる側としては、落ち着かない。ここからもっと掘り下げた話を読みたかった。話が「原子力」から離れてしまうとしても。

*1:朝日新聞』2012年8月14日夕刊3面

STSの方法論はそもそも「科学vs.社会」を前提としている?

*引用文中の句読点は「、」「。」に統一した。

 STSの政治論的転回関係の文献を読んでいく中で以下の文章を見つけた。

 ここでは、STSの方法論が「科学vs.社会」という概念対を下敷きにしていることだけを確認しておきたい。たとえば藤垣裕子は、STS研究の初学者向けに事例分析の方法論を定式化している(藤垣 2005)。それは年表作成に始まって既存の枠組みへの懐疑に至るまでの五つのステップに分けられているが、注目すべきは、その第三のステップに、専門家と社会の側(裁判所、世論、地域住民)の主張の違い(科学的合理性と社会的合理性のずれ)の把握が設定されている点である。
 こうした把握が不可欠なステップとして含まれるためには、選ばれる科学現象は以下のような条件を満たす必要がある。すなわち、その「科学」現象は「社会」生活に何らかの問題を引き起こしており、その問題に関する主張において専門家と社会の側が議論する空間がある程度は設定されており、そして両者の主張が異なっており、その主張の根拠となる合理性には、科学的合理性と社会的合理性として定式化できるような差異がある、といった条件である*1

 上記の文章に引用されている(藤垣 2005)の事例分析の方法のステップを以下に引用する。

① 年表をつくってみよう。
② 利害関係者を書き出してみよう。
③ 各利害関係者の違いをまとめてみよう。
 ③-1 専門家の主張をまとめてみよう(専門誌ではそのように扱われているか)。
     専門家内の主張のずれをみてみよう(合意があるか。合意がまでないのか)。
 ③-2 専門家の主張と社会の側(裁判所、世論、地域住民)の主張の違いをまとめてみよう(科学的合理性と社会的合理性のずれはどこにあるか)。
④ 論点を可視化してみよう。
⑤ 問題のフレーミングを疑ってみよう。既存の枠組みを疑ってみよう*2

 また、小林傳司氏はSTS研究の領域に属する問題を扱った論集の冒頭で「社会的合理性」の「科学的合理性」への優越を謳っている。

 われわれの基本的視点は、社会における科学技術のあり方を検討する際に優先されるべきは、「科学的合理性」ではなく「社会的合理性」だということである。このことはもちろん、「科学的合理性」の無効を宣言するものではない。ただ、「科学的合理性」は「社会的合理性」の統制のもとで、その有効性と限界が測定され、評価されなければならないのである。そして、この両者の関係こそが、本書で繰り返し語られる「公共圏」あるいは「公共空間」において討議されるべき中心課題なのである*3

 STSの研究対象として選ばれた「科学」現象において「科学的合理性と社会的合理性のずれ」が見出され、しかも検討の際に優先されるべきは「科学的合理性」ではなく「社会的合理正統言うことになれば、必然的に「科学」現象が否定的な評価を受けることにならないだろうか?場合によっては徒に「科学」と「社会」の間の対立を煽ることになりかねないのではないか*4

*1:中村和生「科学社会学における「社会」概念の変遷」酒井泰北斗ほか編『概念分析の社会学 : 社会的経験と人間の科学』ナカニシヤ出版、2009年、233−260頁、特に254頁。

*2:藤垣裕子「解題: Advanced-Studiesのために」藤垣編『科学技術社会学の技法』東京大学出版会、2005年、221-235頁、特に223-224頁。

*3:小林傳司「はじめに」小林傳司『公共のための科学技術』玉川大学出版部、2002年、3-5頁、特に3-4頁。

*4:おそらく、「第三の波」の議論などはそういうことに対する批判ではないかと私は思うのだけれど、科学社会学者松本三和夫氏はこの議論の「広範かつ持続的な反響にもかかわらず日本での認知度が低い。」と述べている[松本三和夫「「第三の波」をこえて:科学と社会の微妙な界面」『UP』39(7)、2010、8-13頁、特に9頁]。

「リスク・コミュニケーションの参与者の意図は、時に政治的である。」

 昨日、平川秀幸氏の以下のツイートを読んだ。

全米研究評議会(NRC)の89年の報告書Improving Risk Communicationより引用:『民主主義における他のコミュニケーションの場合のように、リスクコミュニケーションの参加者の意図は時に政治的である。』(続
https://twitter.com/hirakawah/status/209885810550521856

続)『すなわち、リスクについてのメッセージは、時にそれらを伝えられる人々の信条や行動に影響を与えることが意図される。リスクコミュニケーションは、有害物やリスクを含む意思決定、すなわちリスク管理の筋道の中で理解されねばならない。』 ←当然これは相互的・互酬的な関係を前提にしたもの。
https://twitter.com/hirakawah/status/209886356908941313

 引用の原文が書かれている箇所を見つけたので、パラグラフ全体を訳してみた。(太字は平川氏の引用箇所)

 民主主義における他のコミュニケーションと同様に、リスク・コミュニケーションの参与者の意図は、時に政治的である。すなわち、リスクについてのメッセージはそれが宛てられている先の人々の信念と行動に影響を与える傾向がある。なので、リスク・コミュニケーションはハザードとリスクを含んでなされる意思決定、すなわちリスク・マネジメントの文脈において理解されねばならない。リスクについてのコミュニケーションは、高度に技術的な性質の事案が他の論争的な問題よりもコミュニケーションを難しくするので、特別な注意に値する。私的なハザードに対処する人々と公的な決定に参画する人々を含む、リスクについての意思決定者は、自分たちが訓練を受けたことがない科学的な専門分野からの複雑で技術的な情報を探し出し、解釈する必要がある。彼らはその情報を生み出す専門家と意思疎通しなければならず、そしてある程度までは彼らに頼らなければならない。付随する選択は論争的で、重要な経済的利害に影響を与えていて、価値感を強固に保持しているので、専門家や彼らの雇用者を含む意思決定の参与者達は、感情に訴えかけ、事実をゆがめ、そしてその他の方法で自分達が望む方向に向くように、最終決定に影響を与えるべくコミュニケーションを用いる動機を持っている。それゆえ、技術的な問題についての議論において、非専門家と官僚がバイアスのない情報のために疑いなく頼ることができる参与者はいない。

As with other communication in a democracy, the intent of hte participants in risk communication is sometimes political. That is, messages about risk are sometimes intended to influence the beliefs or actions of those to whom they are adressed. Risk communication, then, must be understood in the context of decision making involving hazards and risks, that is, risk management. Communication about risk deserves special because the highly technical nature of the subject matter makes it more difficult than communication about other controversial issues. Risk decision makers, including individuals managing personal hazards and participating in public decisions, need to seek and interpret complex technical information from scientific disciplines in which they have not been trained. They must communicatte with, and to some extent rely upon, the experts who generate that information. Because the attendant choices are controversial, affecting important economic interests and strongly held values, participants in the decision process, including experts and their employers, have incentives to appeal to emotions, distort facts, and otherwise use communication to influence the ultimate choice in the directions they desire. Thus there are no participants in debates on technological issues on whom nonexperts and public offcials can rely unquestioningly for unbiased information. *1

ツイートとはニュアンスが異なっているように感じる。「互酬的」というよりも、利害が対立している両者の関係を表しているようである。

*1:Committee on Risk Perception and Communication, Commission on Behavioral and Social Sciences and Education,Commission on Physical Sciences, Mathematics, and Resources, National Research Council, Improving risk communication, Washington, D.C., 1989 http://www.nap.edu/openbook.php?isbn=0309039436, pp. 22f.

コリンズとピンチはホメオパシーを擁護していたのではないらしい。

 id:kumicitさんのブログ『忘却からの帰還』の3月5日付の記事「CSICOPを斬ってたSTS学者」にSTS学者Trevor J PinchとHarry M. Collinsの著書からの引用とkumicitさんによるその日本語訳が載せられていた。

If homeopathy cannot be demonstrated experimentally, it is up to scientists, who know the risks of frontier research to show why. To leave it to others is to court a different sort of golem - one who might destroy science itself.

ホメオパシーを実験的に実証できないのであれば、フロンティア研究のリスクを知る、科学者たちに、その理由を示すことが委ねられる。それを他人に任せるのであれば、科学自体を破壊するであろう別種のゴーレムを召喚することになる。

Harry M. Collins, Trevor J. Pinch: "The Golem: What You Should Know About Science", 1993 p.144 via Bricmont]*1

 上記の文章は、一見ホメオパシーをしているように見え、kumicitさんもそのように解釈されているが、以下の文献によるとそうではないらしい。

29. We do, however, wish to apologize to Collins and Pinch for misunderstanding their assertion that "If homeopathy cannot be demonstrated experimentally, it is up to scientists, who know the risks of frontier research to show why."(1993, 144). We accept their assurences [15] that they are not defending homeopathy or attempting to shift the burden of proof away from homeopathy's advocates*2.

(私訳)
29. 我々はしかしながら、コリンズとピンチに「もしホメオパシーが実験的に証明されることができないなら、理由を示すことが、フロンティア研究のリスクを知る科学者達の責任である。」(1993,144)という彼らの主張を誤解したことを謝りたい。我々は彼らがホメオパシーを擁護していたのではなく、ホメオパシーの擁護者から証明の責任を転嫁する事を試みたわけでもないという彼らの保証を受け入れる。

 [15]というのは上の論文が掲載されていたのと同じ本の15章のことであろう。そこにCollinsの以下の文章がある。

11. Incidentally, Bricmont and Sokal remark that Collins and Pinch say in The Golem (page 144 in the first edition, page 142 in the second) that "If homeopathy cannot be demonstrated experimentally, it is up to scientists, who know the risks of frontier research to show why." This appears to be a classic (mis)understanding out of context. The sentence―and I think any careful reader can see it―is not a defense of homeopathy, but a defense of a role of scientific expertise against the raids of stage magicians and the like*3.

(私訳)
11. ところで、ブリクモンとソーカルはコリンズとピンチがThe Golemの中で(初版の144頁、第2版の142頁)「もしホメオパシーが実験的に証明されることができないなら、理由を示すことが、フロンティア研究のリスクを知る科学者達の責任である。」と言ったことに言及している。これは典型的な文脈を外れた読み方(誤読)である。この文章は―そして私はいかなる注意深い読者もそれを理解できると思っているが―ホメオパシの擁護ではなく、舞台奇術師やそのようなものの侵入に対する科学の専門知識の擁護である。

 つまり、こう言いたかったのだろうか。ホメオパシーがだめだということは、科学者自身で明らかにするべきだ、(ジェームズ・ランディのような)マジシャンに任せると「科学自体を破壊するであろう別種のゴーレムを召喚することになる」と。

*1:http://blog.seesaa.jp/tb/255749478

*2:Jean Bricmont and Alan Sokal, "Reply to Our Critics" in Jay A. Labinger and Harry Collins eds., The One Culture?: A Conversation about Science, The University of Chicago Press, 2001, pp. 243-254, esp. p. 253, n. 29.

*3:Harry Collins, "One More Round with Relativism" in ibid., pp. 184-195, esp. p. 190, n. 11.