コリンズとピンチはホメオパシーを擁護していたのではないらしい。

 id:kumicitさんのブログ『忘却からの帰還』の3月5日付の記事「CSICOPを斬ってたSTS学者」にSTS学者Trevor J PinchとHarry M. Collinsの著書からの引用とkumicitさんによるその日本語訳が載せられていた。

If homeopathy cannot be demonstrated experimentally, it is up to scientists, who know the risks of frontier research to show why. To leave it to others is to court a different sort of golem - one who might destroy science itself.

ホメオパシーを実験的に実証できないのであれば、フロンティア研究のリスクを知る、科学者たちに、その理由を示すことが委ねられる。それを他人に任せるのであれば、科学自体を破壊するであろう別種のゴーレムを召喚することになる。

Harry M. Collins, Trevor J. Pinch: "The Golem: What You Should Know About Science", 1993 p.144 via Bricmont]*1

 上記の文章は、一見ホメオパシーをしているように見え、kumicitさんもそのように解釈されているが、以下の文献によるとそうではないらしい。

29. We do, however, wish to apologize to Collins and Pinch for misunderstanding their assertion that "If homeopathy cannot be demonstrated experimentally, it is up to scientists, who know the risks of frontier research to show why."(1993, 144). We accept their assurences [15] that they are not defending homeopathy or attempting to shift the burden of proof away from homeopathy's advocates*2.

(私訳)
29. 我々はしかしながら、コリンズとピンチに「もしホメオパシーが実験的に証明されることができないなら、理由を示すことが、フロンティア研究のリスクを知る科学者達の責任である。」(1993,144)という彼らの主張を誤解したことを謝りたい。我々は彼らがホメオパシーを擁護していたのではなく、ホメオパシーの擁護者から証明の責任を転嫁する事を試みたわけでもないという彼らの保証を受け入れる。

 [15]というのは上の論文が掲載されていたのと同じ本の15章のことであろう。そこにCollinsの以下の文章がある。

11. Incidentally, Bricmont and Sokal remark that Collins and Pinch say in The Golem (page 144 in the first edition, page 142 in the second) that "If homeopathy cannot be demonstrated experimentally, it is up to scientists, who know the risks of frontier research to show why." This appears to be a classic (mis)understanding out of context. The sentence―and I think any careful reader can see it―is not a defense of homeopathy, but a defense of a role of scientific expertise against the raids of stage magicians and the like*3.

(私訳)
11. ところで、ブリクモンとソーカルはコリンズとピンチがThe Golemの中で(初版の144頁、第2版の142頁)「もしホメオパシーが実験的に証明されることができないなら、理由を示すことが、フロンティア研究のリスクを知る科学者達の責任である。」と言ったことに言及している。これは典型的な文脈を外れた読み方(誤読)である。この文章は―そして私はいかなる注意深い読者もそれを理解できると思っているが―ホメオパシの擁護ではなく、舞台奇術師やそのようなものの侵入に対する科学の専門知識の擁護である。

 つまり、こう言いたかったのだろうか。ホメオパシーがだめだということは、科学者自身で明らかにするべきだ、(ジェームズ・ランディのような)マジシャンに任せると「科学自体を破壊するであろう別種のゴーレムを召喚することになる」と。

*1:http://blog.seesaa.jp/tb/255749478

*2:Jean Bricmont and Alan Sokal, "Reply to Our Critics" in Jay A. Labinger and Harry Collins eds., The One Culture?: A Conversation about Science, The University of Chicago Press, 2001, pp. 243-254, esp. p. 253, n. 29.

*3:Harry Collins, "One More Round with Relativism" in ibid., pp. 184-195, esp. p. 190, n. 11.

杉山滋郎「科学コミュニケーション」(『科学』973号、2005年5月、68‐84頁)を読んで思ったこと

 杉山滋郎「科学コミュニケーション」(『科学』973号、2005年5月、68‐84頁)を読んだ。この論考は「欠如モデル」についてかなり紙幅を割いている。その中に「「信頼性の」重要性」という節があり、冒頭で以下のように述べている。

 欠如モデルでは科学知識の欠如を問題視する。その背景には、一般の人々といえども科学にまつわる諸問題について自分の力で、自分の責任で適切に決定を下す―もちろん、必要に応じて専門家など他の人々の助言を受けてもいいのだが、最終的に自分の判断で決定を下す―ことができなければならない、という考えがある。そうであってこそ民主主義の社会が成り立つのだとも言われる。
(同論考、75頁、以下頁番号のみを挙げているのはこの論考からの引用。)

 しかし著者は、現実には他人への「信頼」が重要な役割を果たしているという。自分が毎日安心して床の上を歩くのや水道の水を飲むのは、それらの安全性は自分で確かめたからでなく、「しかるべき専門家や権威ある人(組織)を信頼して、そうしているのである。」(75頁)
 また著者はこうした信頼関係は科学に関わる場面だけで作用しているわけではないと言う。街中で多くの人とすれ違う時、いちいちそれらの人を警戒したり、何をしようとしているかを探ろうとはしない。「ふつうは、それら他人をまったく信頼し、あたかもそれらの人がいないかのようにみなして―このことを社会学者のギデンズなどは、「都会的無関心」(civil inattention)という―安心して街中を歩くのである。」(76頁)この信頼関係が崩れれば、もはやcivil inattentionは発動しない。

 同様に、われわれは科学を信頼している限りcivil inattentionでもって科学に接し、科学から恩恵を受けこそすれ、科学(者)に警戒心を抱いたり科学の中身にまで立ち入ってその正体を知ろうとは思わない。しかし、ひとたび信頼関係が崩れる科学について知りたくなる。科学はどこまで信頼できるのか〔中略〕、物事を決めるにあたって科学の言うことにどれほどの重きを置く必要があるのか、等々の問いを発し、専門家たちとの間で信頼関係の再構築をする。(76頁)

 この時に科学の知識内容や科学研究の方法に関心の目が向くことがあったとしても、最終的な目標はあくまで信頼関係を再構築することで、知識を得ることや研究の方法を知ること自体が目的でないと著者は言う。
 また、著者は欠如モデルの下での、「高度に発展した科学技術に囲まれて生活しているのだから、それに応じた多くの科学知識を身につけなければならない」(76頁)という主張は、科学技術の発展は科学知識を次第に不要にしていくという面を伴うので説得的とは思えないと述べている。

つまり、科学技術(の産物)は、発展するにつれ素人の存在を前提にしたものに形態を変えていき、科学技術を包合する社会のシステムもあわせて編成されなおしていく、そしてその社会システムが十全に機能することによって信頼が確保されるのである。(76‐77頁)

 そして著者は科学コミュニケーションは、こうした「信頼」を確立する場面でも大いに活躍できるはずであり、その役割が「信頼」を抜きにしてただ知識を流し込むということに限定されてはならない、と述べてこの節を締めくくっている。
 しかし、一度壊れた信頼関係はどのように再構築されるのであろうかと、私は思う。ここでの信頼関係の再構築や社会システムの再編成というのが、自発的になされていくように書かれているように私には感じられた。
 今年3月に起こった東京電力福島第1原発事故後は、まさにこの信頼関係が崩れたときなのだが、これがどのように再構築されるかのだろうか。誰を、何を信頼したらよいのだろうか問う時、誤った対象を信頼してしまわないだろうか。
 またそもそも、信頼できる対象を見つけることができるだろうか。11月13日福島市飯野町において福島市社会福祉協議会飯野協議会が主催する講演会が「原発事故と健康被害について」開かれ、2人の講演が行われたが、両者の主張は正反対で、質問の時間もあったが聴衆からは全く質問が出ず、司会は「不安と安心が入り乱れていると思いますが、それぞれの頭で考えて放射線対策をしてください」と締めくくったという*1。全く正反対の見解が提示されたままの時、「素人」は途方にくれるだけではないだろうか。
 こうした時に、科学コミュニケーションがどのように活躍してくれるのかを知りたいと私は思う。

*1:(プロメテウスの罠)無主物の責任:7 「先生2人、話は正反対」『朝日新聞』2011年11月30日朝刊3面

【修正あり】「ボドマー・レポート」のボドマー、「公衆の科学理解」について語る。

 「欠如モデル」という言葉は1985年にロイヤル・ソサエティが発行した報告書The Public Understanding of Science*1に端を発するレポートや調査が依拠している「暗黙の仮定」を形容するモデルとして、1991年に出されたいくつかの論文の中で登場したという*2
  このThe public understanging of science報告書は、これをまとめた特別委員会の議長ウォルター・ボドマー(Walter Bodemer)の名に因んでボドマー・レポートと呼ばれる。このボドマーが書いた「公衆の科学理解」についての論文を見つけたので読んでみた*3
 彼はこの報告書の目的について以下のように述べている。

The main eventual thrust of the report, published in 1985, was directed at the need for scientists to learn how to communicate with the general public in all its guises, and to consider it a duty to do so.*4
(1985年に出版されたこの報告書の主要な最終目的は、科学者達があらゆる形態で一般公衆とコミュニケーションをとる方法を学び、そうすることを義務と考える必要性に注意を向けていた。)

 やはり「欠如モデル」と呼ばれるのは不本意のようで、この論文には「欠如モデルとその欠如(The Deficit Model and Its Deficiencies)」という節があり、反論をしている。
特にこの部分、

This has come to be known as the ‘deficit model’, a term apparently coined by John Ziman, who was actually a member of the Royal Society group and signed off on the final version of the report.*5
(これは実際にロイヤル・ソサエティ・グループのメンバーであり、このレポートの最終版に署名したジョン・ザイマンによって明らかにどうも造語されたらしい言葉、「欠如モデル」として知られている。)〔2012年2月23日修正〕

あなただって、この報告書を作成した一員ではないですか、という感じがひしひしと伝わる*6。その他、ウィンやミラーなどの論文やレポートにも反論をしている。
 もちろん、ボドマーは「欠如モデル」批判言うような公衆の関与が必要だというは認める、しかし、

But how can there be the dialogue that this requires, without some understanding of the scientific issues involved? ... Without the ability to explain science in a way that the non-expert can understand and a willingness to get involved in the dialogue, there can be no public engagement.That is the key issue that the 1985 report was addressing.
*7
(しかし、関連する科学的問題のいかなる理解も無しに、これが求めている対話がどのようにありうるだろうか?…非専門家が理解できる方法と対話に関わり合う意志を持って科学を説明する能力なくしては、公衆の関与はありえない。これが1985年のレポートが扱った主要な問題である。)

 そして、この節の最後を次のように締めくくっている。

I have sometimes asked the question in public: ‘Does anyone have an argument against the public understanding of science?’ I have never received a reply!
*8
(私は時々公然とたずねる。「誰か公衆の科学理解に反論していますか?」私は今までその返事を受け取ったことがない!)

 BSE問題などには触れていないので、多少自己弁護的かもしれないが、一つの考えとして紹介してみた。

                                                                                                                                                                                    • -

おまけ
 ボドマーは、レポートから25年経た後の変化として、大学進学率の向上とWebで得られる情報が増えたことを挙げている。

The second major change is the extraordinary, explosive increase in information available on the Web. This is both a blessing and a problem. It enormously increases the opportunity for self-education on the Web but raises the question of which of the millions of sources of information can be trusted.
*9
(第二の主要な変化はウェブ上で利用できる情報の並外れていて、爆発的な増加である。これは祝福すべきことであると同時に問題でもある。それは、ウェブ上での自学のための機会を非常に増加させたが、確認されなければならない情報の膨大な典拠の問題も引き起こしている。)

*1:邦訳:大山雄二訳「公衆に科学を理解してもらうために」I『科学』56(1)、1986年、21-29頁、II、同56(2)、1986年、96‐102頁、III、同56(3)、1986年、171-181頁(筆者未見)。

*2:藤垣裕子「受け取ることのモデル」藤垣裕子・廣野喜幸編『科学コミュニケーション論』東京大学出版会、2008年、109‐124頁、特に110頁。

*3:Walter Bodmer, "Public Understanding of Science: The BA, the Royal Society and COPUS", Notes & Records of the Royal Society,64, 2010, pp. 151-161. ここではオンライン版| Notes and Recordsを参照し、引用にあたっては、PDF版の頁付け(pp. 1-12)を用いる。

*4:Ibid., p. 4.

*5:Ibid., p. 7.

*6:おそらく、J. Ziman, "Public understanding of science", Science, Technology and Human Value 16(1), 1991, pp. 95-105.ただし、同じ雑誌のpp. 111-121に掲載のB. Wynne, " Knoswledges in context"が「欠如モデル」を造語したと言う研究者もいる。両論文とも未見のため、筆者は今判断することができない。また、藤垣前掲論文、120頁註3では、「欠如モデル」という言葉は論文の中に登場する前に、英国内部のワークショップの中では1988年から使われていたという。

*7:Bodmer, op. cit., pp. 8f.

*8:Ibid., p. 9.

*9:Ibid., p. 10.

尾内隆之・本堂毅「御用学者がつくられる理由」(『科学』81巻9号所収)

 雑誌『科学』は9月号で「科学は誰のためのものか─原発事故後の科学と社会」という特集を載せている。その中の一つに流通経済大学法学部講師尾内隆之氏と東北大学大学院理学研究科准教授本堂毅氏の共著論考「御用学者がつくられる理由」があった*1。この論考については『科学新聞』*2と『朝日新聞*3で言及されていた。
 一点だけ、私が興味深いと思ったことを挙げておく。それはこの論考が権力側の専門家だけでなく、市民の側に立って「御用学者」に対峙する対抗専門家(counter expert)にも以下のように述べていることだ。

「御用学者」の定義に, クライアントの要望にしたがって専門的知見を特定の立場に有利に働くように恣意的に用いることへの批判が込められている以上, その点を問題視するならば, 政府や企業などの権力側に対抗的に行動する科学者や市民の側も, 「踏み越え」の問題点を理解し, 価値判断を分節化して議論することが必要である。
(「御用学者がつくられる理由」892頁)

 この観点は今ネット上で盛んに「御用学者」、「エア御用」の言葉が飛び交っているが、「対抗専門家」についても安易にその説くところを盲信するべきではないだろうと、私は思う。

*1:『科学』2011年9月号=81巻9号、887−895頁。独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター不確実な科学的状況での法的意思決定プロジェクトのサイトの資料提供 - L&Sページから全文のPDFファイルが読める。

*2:「尾内、本堂両氏は、科学者が科学の適応範囲を踏み越える場合には、科学研究自体がもつ不安定性と価値判断という2つの要素が関連しているとし、「後者は科学的知見だけでは答えが出ない問いに、科学者が『科学の答え』のごとく発言する場合に問題となる」と指摘している。」「素領域」『科学新聞』2011年9月23日 1面

*3:「科学専門誌の「特集 科学は誰のためのものか」(科学9月号)が、専門外の読者にも読ませる内容。尾内隆之・本堂毅「御用学者がつくられる理由」は、「行政や市民らの非専門家が科学者に価値判断までをも委譲している」とし、科学者が本来の領域を「踏み越え」て、社会的判断までも下してしまうことの問題を論じる。」「編集部が選ぶ注目の論考」『朝日新聞』2011年09月29日 朝刊 19面

「いまだなおドイツは購入するより多くの電力を売却している。ただし・・・」

 先日RTされてきた環境エネルギー政策研究所(ISEP)の所長飯田哲也氏の以下のようなツイートを見た*1

【日本にはびこる露骨なウソ】「独は仏から電気を輸入しているから脱原発できる」←(正解)独は仏に対してずっと輸出超過。原発を8基止めた今年でも11TWhの輸出超過。英語ですが→ http://p.tl/yd6A

 ドイツが原発停止措置後も電力の輸出が輸入を超過しているというので、「へぇー」と思って、リンク先の英文を読んでみた。*2
以下にその一部を引用する。

Germany's bureau of statistics reports that the country exported more electricity than it imported during the first half of 2011. This puts the lie to widespread rumors circulating in North America that Germany is closing its nuclear power plants by relying on imports of electricity from its neighbors.

Though the bureau of statistics notes that the margin of exports over imports has decreased from 2010, Germany sold 4 TWh more electricity than it bought during the period. Germany consumes more than 300 TWh every six months. The surplus for export represents about 1% of consumption.

In the first half of 2010, Germany exported nearly 11 TWh more electricity than it imported.

(私訳)
ドイツ連邦統計局はこの国が2011年上半期において輸入するよりも多くの電力を輸出していると報告している。これはドイツが隣国からの電力輸入に依存することで、その原発を閉鎖しているとの北米で広まっている流言が嘘であるということを示している。

統計局は輸入に対する輸出のマージンが2010年から減少していることに言及しているけれども、ドイツはその期間に購入するよりも4TWH*3多くの電力を売却した。ドイツは半年毎に300TWh以上を消費する。輸出余剰は消費の約1パーセントに相当する。

2010年に上半期、ドイツは輸入するよりもほぼ11TWh多くの電力を輸出していた。

 これを読むと今年上半期は4TWhの輸出余剰で、11TWhの余剰があったのは去年である。よって飯田氏の「原発を8基止めた今年でも11TWhの輸出超過。」という発言は間違っている。

 またこの英文サイトにリンクがはってあったドイツ連邦統計局のニュースリリース*4をみてみた。内容は当然のことながら、上記英文サイトの引用部分をほぼ同じである。(流言が嘘云々の記述はない。)しかし、最後のパラグラフに以下のような記述がある。

Die größten Strommengen wurden aus den beiden Nachbarländern Frankreich (10,4 TWh) und der Tschechischen Republik (5,6 TWh) eingespeist. Die beiden wichtigsten Abnehmer für Strom aus Deutschland waren die Alpennachbarn Österreich (7,8 TWh) und Schweiz (7,6 TWh).

(私訳)
大きな電力量が二つの隣国フランス(10.4TWh)とチェコ(5.6TWh)から供給された。ドイツからの重要な電力の購入相手はアルプスの隣国オーストリア(7.8TWh)とスイス(7.6TWh)だった。

 フランスからは電力を輸入している。よって飯田氏のツイートの「独は仏に対してずっと輸出超過。」の部分も間違いである。

 確かにドイツの2011年上半期は電力の輸出超過である。しかし、今年の上半期には原発が動いていた期間も含んでいる。また去年同時期よりも格段に輸出マージンが減少しているので、今後も電力輸出が可能かはまだ判断できないだろう。さらに、現在はフランスとチェコからの電力を輸入している。これらのことは理解しておくべきだろう。
 

「自由」にまつわる三つの話

(回想したことをとりとめなくまとめたものです。記憶に頼っているので、一部事実とは異なる可能性があります。)
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 小学生低学年の時に、ある漢字の学習教材を読んだ。これは私のために購入されたものではない。おそらく兄のために父母か、むしろこちらの方が可能性が高いが、祖父母によって買い与えられたものであろう。それはまずお話が掲載されていて、次にそのお話に出てくる漢字の書き取りの練習ができるドリルがついているものであった。対象は小学2年生であったと記憶している。そのお話の中にこのようなものがあった。
 牧場で飼われているヤギが自由を求めて柵を越えての脱走を繰り返す。捕まった後、どんなに鞭で打たれようが、ひたすら自由を求めて脱走を繰り返す。ある時、終に森への脱走へ成功する。「ぼくは自由だ!」と喜ぶヤギ。そこへ一頭のオオカミが迫り来る。それに果敢に挑むヤギ。「ぼくの自由をじゃまするものはゆるさないぞ!」。最後に次のような地の文が置かれていた。「ヤギがオオカミにかなうわけがありません。どうなったかおわかりでしょう。」これはおそらく、「自」、「由」という文字を学習するための話だったのだろう。
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 次も小学生低学年の時のことだと思う。とあるスーパーの中にあったレストランで、注文の品が来るのを持っている間に備付けの漫画を読んでいた。『勝手にしろくま』であったと記憶している。その中にこんな話があった。
 働きアリが一匹、仕事を放棄してどこかへ行こうとしている。もう一匹の働きアリがそれを見咎めて止めようとする。「どこへ行くんだ!」「俺は事由にやらしてもらう。」後者のアリをたたき伏せてどこかへ行こうとする前者。そこへ2匹目のアリが呼んだ多数の働きアリたちが脱走アリをリンチする。他のアリたちが去って、瀕死の脱走アリ。足が一本もがれ、体液が流失している状態で呻く。「じっ、じゆう〜。」
 (確かこの後、逃亡しようとする働きアリはこのような目に合うというような地の文が続いたような気がする。)
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 これは学生時代に見ていた『ゲゲゲの鬼太郎』第4シリーズ、「天邪鬼」の回の話。山中を彷徨するねずみ男が祠(?)をみつけ、お宝があるかと思い、封印をはずす。だが、それは天邪鬼を封じ込めているものだった。封印の解かれた天邪鬼にねずみ男はこき使われる。
 天邪鬼は別荘地の社長(?)令嬢を洞窟に拉致する。そこへ駆けつける鬼太郎一行。「そんなことはやめろ!」という鬼太郎に対して、「俺に命令するな!」、「俺は自由だ!」という天邪鬼。結局、社長令嬢、ねずみ男、鬼太郎一行、天邪鬼に洞窟に閉じ込められる(洞窟の入り口に大岩を置かれる)。そこから逃がしてくれたらお礼をするという社長令嬢の言葉に、ねずみ男俄然やる気になる。鬼太郎の仲間たちも含めて地面を掘って脱出路を作ろうとするが、一番一生懸命なのはねずみ男である。社長令嬢は進捗しない作業に苛立ち、「早くしてよ!」と言い放つ。
 猫娘は「ねずみ男は一生懸命やっているじゃない!」と抗議する。「この人はお金がほしいだけよ!」と言う令嬢に対してねずみ男、穴掘り作業を続けながら振り返りもせずに言う、「そうさ、俺は金がほしいのさ。だが、俺は他の生き方をできやしない。」
 この言葉に令嬢、心を動かされる。結局令嬢含めてみんなで掘る。天邪鬼帰って来て、なんやかんやで鬼太郎と戦闘、攻防の末鬼太郎、天邪鬼に大岩を投げる。大力の天邪鬼、難なくこれを受け止めるが、それには封印のお札が貼ってあった。「俺は自由だ!」全力を振り絞ってこれに抗う邪鬼。ねずみ男は、その光景に見入っている令嬢の傍らに立ち、そちらの方を見ずに言う、「見てみろよ。必死で抵抗しているじゃないか。無理もねえ。数百年も封印されていたんだからな。」
 ついに天邪鬼が封じ込まれる。嬉々としてお礼を要求するねずみ男だが、「だめよ。私も働いたんだから。」と冗談めかして令嬢は笑う。

【追記あり】マキァヴェッリ『ディスコルシ』におけるタキトゥス『年代記』からの引用について(2)

 *前回の記事のまとめ*
 マキァヴェッリ『ディスコルシ』2巻26章の末尾に"Nam facetiae asprae, quando nimium ex vero traxere, acrem sui memoriam relinquunt."というラテン語の一文があり、これはタキトゥス年代記』15巻68章からの「引用」である。最新の邦訳『マキァヴェッリ全集』版*1はこれを「実際、むきだしの冗談というものは、それが真実からかけ離れてしまっているときには、それ自身とげとげしい後味を残す」訳している。しかし、『年代記』の該当箇所は「じっさい冗談が、申し分なく真実を根拠としているとき、あとあとまで苦い思いを残すものである」である。
 「真実からかけ離れてしまっている」冗談と「申し分なく真実を根拠としている」冗談では、意味が正反対である。現代欧語訳を確認したところ、それらは全て後者の「申し分なく真実を根拠としている」という方の解釈をしていることがわかった。

 今回は該当箇所の邦訳について比較してみる*2

1. 林董訳『羅馬史論』博文館、1906年
 外交官・政治家である林董(はやし ただす、1850-1913)が、英国駐剳特命全権公使(1900−1905)、同大使(1905-1906)としてロンドンに在勤中に英訳から邦訳したものである。

凡そ嘲笑罵詈の言は戯譃に出るも眞意に發するも、人の憤怒を招ぐ〔ママ〕こと之より大なるものはあらず。故に「タシタス」(Tacitus)は曰く、辛辣の諧譃にして然も一分の眞を抱合するものは怨恨を後來に残すこと長し〔原文傍点〕と*3

 参考にした英訳というのは年代的に前回挙げた英訳(1)ではないかと思われるが詳細は不明である。「一分の眞」という言葉の「一分」だが、「少々」や「多少」と解釈するよりも、「一定」と解釈したほうが文脈に合うような気がする。林訳は、英訳を参照しているので当たり前だが、「冗談が、申し分なく真実を根拠としているとき、」という現代欧語訳と同じ解釈をとっていると言えるだろう。

2. 多賀喜彦訳『ローマ史論』上下、創元社、1940年 (『マキァヴェルリ全集』第2−3巻)(=大岩誠訳『ローマ史論』1−3巻、岩波文庫、1949−1950年、大岩誠は多賀喜彦のペンネームだという)
 底本は1798年ジェノヴァマキァヴェッリ全集5−6巻所収のI Tre Libri de' Discorsi sopra la prima Deca di Tito-Livioを用い、J・V・ペリエの仏訳を参照したという*4

既に申し述べたやうに、ひとを馬鹿にするのは洵〔まこと―引用者〕に危険なこととローマ人は考へ、従つて辱めを受けた時は非常に苦しむのだつた。それといふのも、世の中に何が一ばん癪に障り、何が一ばん心の底から怒りを感じさせると言つても、Nam facetiae asprae, quando nimium ex vero traxere, acrem sui memoriam relinquunt.(悪意があらうと冗談であらうと、誠しやかな口吻で非難されるほど聞くものの心に厭な後味を残すものはない)からである*5

 丸括弧内がラテン語部分に相当するはずだが、「悪意があらうと冗談であらうと、」は本来ラテン語部分の前に置かれていた文章である。何故か引用部分に入れられてしまっているし、「誠しやかな口吻」と言うのも何のことかわからない。おまけにこれがタキトゥスからの引用であると言うことも一切明示されていない。今回の私の考察に全く役に立たなかった。

3. 永井三明訳「政略論」、会田雄次編『マキアヴェリ中央公論社、1966年 (『世界の名著』16)所収(後に『中公バックス世界の名著』21として再刊)

 すでに説明しておいたように、ローマ人は、他人をこきおろしたり、人の恥をあざけるようなことは、きわめて有害なことと考えていた。なぜなら、本心から言うばあいはもちろん、たとえ冗談で言うときでも、これほど人の心を傷つけ、怒りに燃え狂わせるものは無いからである。だからこそ、いにしえの人のことばにあるとおり、「野卑な冗談というものは、それが真実からまったくかけはなれてしまっているときにはなおさら、とげとげしい後味を残す」ものなのである。

 前回冒頭で掲げた『ディスコルシ』はこの訳の改訳版である。

 すでに説明したように、ローマ人は、他人をこきおろしたり、人の恥をあざけるようなことは、きわめて有害なことと考えていた。なぜなら、本心からの場合はもちろん、たとえ冗談で言うときでも、これほど人の心を傷つけ、怒りに燃え狂わせるものはないからである。だからこそ、いにしえの人の言葉にあるとおり、「実際、むきだしの冗談というものは、それが真実からかけ離れてしまっているときには、それ自身とげとげしい後味を残す」ものなのである*6

 両者にはいくつか異同があるが、今回の考察の対象であるラテン語部分では「真実からかけ離れてしまっている」という解釈に大きな違いは無い。永井訳はこの1966年から、現在まで一貫して同じ解釈をしていることになる*7管見の限りこの解釈を採用しているのは永井一人だけのようである*8
 余談だが、ラテン語部分の直前に原文に無い「だからこそ、いにしえの人の言葉にあるとおり、」と付け加えているのが気になる。どうせ付け加えるなら、「いにしえの人」などとせず、林訳のように「タキトゥス」としてしまえばいいのにと思う。

【2011年8月23日追記】
 永井訳の底本、ベルテリ版を確認したところ、ラテン語箇所に註があり、以下のようなイタリア語訳がついていた。

"Infatti le crude facezie, quando si allontanano da vero, lasciano un'acre memoria di sé.*9"
実際露骨な冗談は、あまりにも真実から遠ざかっている時、それ自体についての辛辣な記憶を残すものである。
〔太字、引用者〕

同註はまた、この引用がマキァヴェッリによって変更されているとも書いている*10
つまりヴェルテリは、ラテン語部分をタキトゥスの引用のままではなく、『ディスコルシ』の文脈に合うように解釈したようである。
 拙ブログ7月31日と今回の記事において、「真実からかけ離れてしまっている」という解釈が永井氏独自のものであるかのように書いたのは誤りであった。また、塩野氏の解釈が永井氏に追随した結果であるとも言い切れなくなった。
 永井氏、塩野氏の解釈に不備があったととられるようなことがあったら、それは私の責任であり、両者並びに読者にお詫びいたします。

【2011年8月28日追記】
 もう一つ別の校訂版について当該箇所の註を確認できた。

«Giacché le crude facezie, quando s'oppongono troppo al vero, lasciano acre memoria di sé.»*11
露骨な冗談は、全く真実に反対している時、それ自体について辛辣な記憶を残すものである。
〔太字、引用者〕

 これまた、ベルテリ版に近い解釈といえるだろう。
 結局、ベルテリ版等を用いた現代欧語訳があるかどうかを確認する必要がある。これを今後の課題としたい。

*1:永井三明訳『ディスコルシ』筑摩書房、1999年、(『マキァヴェッリ全集』2巻)。

*2:『ディスコルシ』の邦訳の歴史については、大久保歩「マキアヴェッリに関する論文と日本語訳されたマキアヴェッリの著作 (書誌作成新人集)」『文献探索』 2004, 385-396頁、特に394−395頁参照。

*3:林訳、365頁。句読点については引用者が手を加えた。

*4:大岩訳、3巻、257頁。

*5:多賀訳、下巻、101-102頁=大岩訳、2巻、164−165頁。

*6:永井三明訳『ディスコルシ』筑摩書房、1999年、(『マキァヴェッリ全集』2巻)、263頁下段。

*7:全集版は2011年3月に『ディスコルシ : 「ローマ史」論』としてちくま学芸文庫で再刊されたが、当該部分を確認したところ、異同は無かった。

*8:塩野七生マキァヴェッリ語録』新潮文庫、1992年(原著:新潮社、1988年)234頁には「どぎつい冗談とは、それが真実からかけ離れている場合はなおさらのこと、とげとげしい後味を残さないではすまないものである」とあるが、これは永井訳を参照したものであろう

*9:Niccolò Machiavelli, Sergio Bertelli ed., Il principe e Discorsi sopra la prima deca di Tito Libio, Milano : Feltrinelli, 1960. (Universale economica Feltrinelli ; Biblioteca di classici italiani ; 3 . Opere / Niccolò Machavelli ; 1)p. 360, n. 6.

*10:La cit. è stata modificata dal M[achiavelli].〔角括弧内は引用者の補い〕

*11:Niccolò Machiavelli, Mario Bonfantini ed., Opere, Milano: Ricciardi, 1954. (La letteratura italiana : storia e testi ; v. 29), p. 293, n. 1